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オーワちゃんの元気がなかった日。クリスマスの祈り。牛の瞳を見た日について。
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最近オーワちゃんの体調が悪かった。(オーワちゃんとは、私が飼っている鶏です)
オーワちゃんが朝だというのにウトウトしている。こういうことが他のニワトリでもたまにある。ぼーっとした感じになって一挙一動がスローになる。
他のニワトリはぴょんぴょん遊んでるけど自分は隅で居眠りをしていたい〜、という感じ。こういうのは決まって少し体調が悪い時で、だいたいは1〜2日経てばコロッと元気になっている。
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★鶏ちゃんたちの話はこちら!
羽毛を逆立てて体と温めようと、身体全体が丸くなっている。お尻を見ると少し下痢している感じ?最近急に寒くなったのもあるだろう。
朝、お風呂場でオーワちゃんのお尻を洗ってあげた。朝のきんと冷えるお風呂場。オーワちゃんを抱えて、お尻にぬるま湯をあててシャバシャバ洗う。不思議とおとなしく終わるのを待ってるから可愛い。「はい、終わったよ〜」このまますぐに外に出したらかえってお尻が冷えちゃうそうだから、乾くまでしばらく家の中に入れておくことにした。
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朝の陽が当たるリビング。ぽかぽかぽかぽか、太陽の音が聞こえるようなこの時間。オーワちゃんは静かに太陽を浴びて立っていた。外から、まるちゃんとアカちゃんが「エサまだーーーっ!?」と家の中を覗いている。「はいはい、もうちょっと待っててね」
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ここで初めて登場した「アカちゃん」とは、まるちゃん(女)とニゴーちゃん(男)の子どもだ。(生まれたとき赤ちゃんだったから「アカちゃん」だよ笑)
一歳3ヶ月になる男の子。実は、お父さんであるニゴーちゃんは去年の夏に急に死んじゃったんだ。
あれから悲しくて、なかなかニワトリのことを書けなかった。私はニゴーちゃんのことが特別に大好きだったから。まるちゃんのことが大好きで、オーワちゃんのことも大切に思って、2人の行動をいつも見張って、エサがあるとまず2人に食べさせてたニゴーちゃん。優しくて、かっこよくて、私はニゴーちゃんにペットに対する以上の気持ちを抱いていた。ほんとに大好きだったんだよ。生き様がカッコよかったんだ。
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これはまるちゃんとニゴーちゃんがヒナだったときの写真。2人は小さいときからの友達だった。
ニゴーちゃんが死んじゃったんだあとも、まるちゃんは変わらず卵を産んだ。ニワトリは、交尾したあと一定期間は有精卵を産める。つまりニゴーちゃんが死んじゃったんだ後でも、期間を置かずして生まれた卵は温めればニゴーちゃんの子どもが生まれてくることになる。ニゴーちゃんがいなくなった後、まるちゃんの産む卵はニゴーちゃんが生きていた唯一の証拠のように見えた。
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私「まるちゃん、卵3つも温めてるよ。いいの?ヒナが生まれちゃうよ」
父「これ温めればまたニゴーちゃんが生まれて来る」
私「…ばか。」
とか言いながら、私もまるちゃんから卵を取り上げなかった。
まるちゃんは本当に根気強く卵を温め続けた。卵からは音もしない。命が育っている気配がない。まるちゃんたちを孵卵器で温めたときも思ったけど、この卵の中で命が育つなんて本当に信じられなかった。外から見ればただの変わりのない卵だから…。
3週間後。ピーヨピーヨと小さい声が聞こえて、ヒナが顔を出した。3羽!!!
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まるちゃんのお腹の下から小さい丸い顔が覗いていたあの瞬間は、私が人生で経験した中でいちばんすてきな瞬間だった。ほんとうに。ほんとうにすてきで、愛おしい瞬間だった。おばあちゃんも見に来て、見たことをすぐノートにメモしていた。
真っ白いところに
黒い点々がふたつ
みんなに見せてあげたくなるかわいさ
命の不思議
おばあちゃんの日記ってほんとに「思ったことをそのまんま」書くから面白い笑
私が思うにあれは、この地球で人間が経験し得る中でも、最高に愛おしくて、魔法がかった景色だと思う。あの瞬間に出会えるなら私の人生には代償として差し出してもいいようなものがたくさんある。そんな瞬間だった。死ぬまでぜったい忘れない。
ああ。涙が出てきちゃった。
まあ、いいんだ、それはそうとして…なんだっけ?
そうそう、アカちゃんはそのうちの1羽。あとの2羽は小さいときに他のニワトリが飼いたいっていう知り合いの方に引き取ってもらった。アカちゃんのことはまた改めて書きます。
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で、オーワちゃんの話に戻る。あーあ…ニゴーちゃんのこと書くつもりはなかったのに、思い出したら記憶が溢れてきて涙が止まらなくなっちゃった。街中のカフェだというのに困ったなあ。
オーワちゃんのお尻が乾いて、外に出してあげた。エサをあげると、食いしん坊のオーワちゃんはいつもならガツガツして食べるのだけど、今日はぶすっとした感じでエサをほじくるだけであんまり食べない。その散らかしたエサをアカちゃんたちががんばって拾って食べている(笑)
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ふとオーワちゃんのトサカを見る。私はニワトリを飼うまでこの「トサカ」というのをよく見る機会がなかったので興味深く見ている。トサカはぷよぷよしてて気持ちいい。感触はきくらげに近い感じで、あれをもう少し分厚く、コリコリさせて、表面の凹凸を少し深くそれがトサカだ。
トサカは、日によってタイミングによって温かかったり冷たかったりする。ちょうど私たちの手やほっぺみたいに。冷たい風に当たればそりゃ冷たいし、日向ぼっこしたりごはんを食べた直後で全身にエネルギーが回っていたりすると温かい。うとうとしてたり寝起きのときなんかは「熱い」と感じるくらい。
で、今日はオーワちゃんは具合が悪いのでトサカがいつもより少し血色が悪くてうなだれている。血色や温度が分かりやすいから、トサカは鶏の体調のバロメーターとなり得ると思う。あくまで私の観察上だけど…。
で、そんなトサカを見たり触ったりする度に思う、「ああ、端から端まで命なんだ」と。こうしてニワトリと一緒に暮らすまで、ニワトリは生きているけどそれがトサカの隅までも血が通っているんだってことを、あんまり想像したことがなかったのだ。なんか、トサカって単なる「飾り」だと思ってた(笑)
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こう、「隅まで命だ」と知って、ゾッとしたという経験がある。2年半前にヨーロッパにファームステイの旅に行ったとき。アイルランドやフィンランドのいくつかの牧場で働いて、そのときたぶん人生で初めて牛をあんなに近くで見たんだけど(鼻と目の先、50cmとかの近く)、そのときいちばん驚いたのが彼らの「瞳の大きさ」だった。
目の前にあるその黒い、ぬるぬる光った液球のような瞳は、私の瞳と比べようもないくらい大きくて、手を伸ばせば触れそうなもので、周りはまつ毛で囲まれていて、彼らの視線に合わせて伏目になったり、キョロキョロ動いたりする。
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そこでふと思ったのが、「彼らが屠殺されたら、この眼球はどこに行くんだろう?」ということ。
牛の眼球がスーパーで売られているのを見たことがない。そもそも眼球って食べられるのか?マグロの目は食べたりするけど…牛は?まさか捨てちゃうってことはないよなあ。ゼラチンを取ったり堆肥にしたり、なんらかの方法で使われるんだと思うけど、でも解体時に肉とは別々にされるのか。。。
私は牛の眼球のことで頭がいっぱいになった。どこに行くの?どうやって取られるの?いま目の前にある牛の瞳はどこからどう見ても牛の一部で、牛の意思と連動してるけど、それが別々になる瞬間はいつ?いつからこの瞳は「眼球」になるの?この牛はいつからこの牛でなくなるの?いつどの瞬間に「モノ」になるの…?
目だけじゃない。私は牛の「骨」も不思議だと思った。目の前で見る牛は、その骨格がありありと分かるほど顔がゴツゴツしていて、こんなに大きい骨は死んだらどこに行くんだろうと思った。そのとき私が思ったことをメモしたものが出てきたので、添付する。
骨の大きさ
触っただけで、その形がありありと感じられるああ、ここに、この骨に、最高の密度で詰められているのは命だ骨の中に詰められたもの、私たちはそれを食べている
そう、変な話だけど、あのとき骨と瞳を目の前で見て、“命”と“モノ”の境界線がさっぱり分からなくなった。それから私は牛のお肉を食べられなくなった。人には普段は「環境問題を考慮して」お肉は食べないって説明するけど、少なくとも彼らの眼球のゆくえを考えたあのとき、私は「牛を食べる」ってことが初めて「分かった」のだ。
で、ニワトリのトサカを見ると、牛の瞳ととても似た「ゾッと」する感覚を覚える。つまり、「ああ、彼らの一部はこんなにも隅々まで彼らの一部だ」ということ。トサカが彼らから切り離されたり、牛から眼球が切り離されて「モノ」になるその境界線がすごく怖い。分かるかなぁ、この感じ。なんとなく分かってくれると思うけど、こういうことを言葉で表すのは難しい。だれもが、牛の眼球を一度、目の前に置いてみたら分かると思う。。。
「どこからどこまでが『命』なのか」
というのは人間がいつか結論を出していかなきゃいけないことだと思う。とはいえ私たちは自分たちのことでさえ、私たちの「本体」が何なのか結論が出せていないところがある。私たちの本体は「肉体」なのか?「こころ」なのか「魂」なのか?私の腕一本を切り離してもそれはまだ「私」?その腕は私ではない?脳みそ一個になるまで私でいる?魂があるとしたら、それはどこに宿ってる?
こんなのは何万年、何百億人がずーっと考えてきたことだけど、まだ結論が出ていない。これは驚くべきことだ。私もずっと考えてるけどぜんぜん分からない。案外、この世には誰も存在していなくて、誰も生きてはいないのかもしれない。
でも、そんなこと言ってたらラチがあかないから、まあ仮に私は今ここにいて、ここにいる私が私だとする。私が一個の肉体としてここに立ってるのだとしたら、あのとき私の目の前にいた牛の、その眼球は間違いなく「彼の」一部だったと思う。
あのとき、「私が私である」その目の前で、「彼」と彼の「骨」と「眼球」とを別々のものとして考えるのは不自然なことだ。眼球だけが眼球として、肉だけが肉として扱われたのなら、目の前にいた「私が私である」理由が説明できなくなる。分かってくれるかな。矛盾が生じてしまう。
「どこからどこまでが命」?という問いには、私が一個の命であり、私が私だと思っている限り、あらゆる命が「隅々までその『命』である」、と答えるしかない。するとそこには「人間」と「動物」とを区別するに足りる理由は含まれていない。
だから私はどこかで、鶏のトサカをただの「トサカ」だと思ってたり、牛の肉は食べたことがあるのにその眼球を見たことがなかった自分を発見して、「ゾッと」したのだ。
動物を殺せる社会とはすなわち人間も殺せるということです
っていう言葉をどこかで聞いたことがある。これは一見すると強引なことを言っているように思えるけど、これは、社会がどれだけ「命とモノ」の境界線を設けてもいいかって話だと思う。
たとえば牛は「肉と眼球」に解体されたらそれは「モノ」となるんだろうけど、じゃあその「モノ」になる瞬間は牛が「死んだ」瞬間なのか?あるいは商品として屠殺場に運ばれた瞬間にそうなるのか、はたまた家畜として生まれた瞬間に?命の中に、「モノである」境界線を人間の裁量で引けるのだとしたら、それはつまり社会がどれだけ「社会のために」「命を」「操作できるか」って話だ。「社会のために」と言ってそれがまかり通る社会なら、人間に対してもできてしまうということだ。極論ではないと思う。私なりに論理的に考えた結果で、「人間と動物は違う」と一蹴する方が感情的な思考だと思う。
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最近、日本のケンタッキーの仕入れ先である養鶏場の内部告発動画が拡散されて、Twitterで何度も見た。正直、これが本当にケンタッキーの関連事業所なのか、本当に現代の動画なのか確証が取れない。だからシェアするのにためらいがあるのだけど、でもいずれにせよ日本の動物保護指数(API)は、先進国では最低ランクの「E」と評価されている。
動画のような残酷な飼育方法が現実かどうかは、私は直接見ていないので分からないけど、少なくとも安価に鶏肉が生産される現実の裏でどんな代償を支払われているかと考えると、全く無関係とは思えない。
クリスマスには多くのフライドチキンが食べられたと思うけど、実はフライドチキン用に流通している多くのお肉が、まだ生まれて50日前後の「ヒナ」で、屠殺されるときには「ピヨピヨ」と鳴いているんです(育ててみて分かったけど、ヒナの成長速度はすごくて、あっという間に成鶏ほどに大きくなる)。
フライドチキンの脚6ピースがあったら、あれはニワトリ3羽の生まれてから死ぬまでの命そのものであるんだけど、それを想像することは簡単じゃない。肉は肉として見える。
朝起きてオーワちゃんのお尻を洗ったり、リビングで一緒に日向ぼっこしたりする私ですら、元の命を想像することは難しいことだ。そう、私の中にもまだ、私の恐れているはずの「命の境界線」がたくさんある。それがいやだ。いやだ、いやだ、いやだ。
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だから私は、「祈り」なんてものは意味のないものだと思ってるけど、クリスマスの今夜は、誰のためでもなく、たくさんの鶏のために祈ろうと思う。やがて6ピースとして扱われる、小さい脚、小さいトサカ。暗い鶏舎のおがくずの地面を踏みながら、それでも最後まで自分が自分として「一個」であった、たくさんのヒナたちのために。だから今日はこの記事を書いた。
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