アイスランド日記 帰宅
14日にアイスランドから帰ってきた。
朝早くから大家さんのJさんが大きな車で送ってくれた。
遠ざかる友達や景色を全力で見た。これが最後じゃないけど、明日にはもう見られない。
飛行機は朝日に向かって飛んだ。言いようのない美しい色をしていて、でもこういう色をGarðurではいっぱい見たなあ、空の色が留めておけないみたいに、アイスランドからどんどん離れていってしまう速度はわたしにはどうしようもなかった。
雲の下ではまだあの雪煙が舞っているのかな?
あの懐っこい馬たちに挨拶をしなかった。
尖った波が見えると、それがあの黒い海岸にたどり着くことを想像した。
あんなに寒いのに、猫が外にいたっけ。黒い砂利に背中をごりごり押し付けていたので、見ているこちらが寒くなった。
眠ったらあっという間にフランスに着いてしまう、と思いながら、現実から逃れるみたいにとろとろ目が開かなかった。
パリに帰ってきたらさっそくスト疲れのパリ市民たちのいらいらに巻き込まれ、私もあやうく悪態をつきそうになった(ちょっとついた)。道端には便器やソファーが逆さまに捨てられ、濡れそぼった新聞紙があちこちに散乱して、修羅の街に帰ってきてしまった、と思う。
きっとすぐアイスランドの生活の速度のことを忘れてしまう。
でも、私があの場所にいたことは忘れない。
誰かの笑顔とか笑い声、手を触れ合ったこととか、ご飯を食べてるときの景色とか聞こえてくる音、私がフロアでもにゃもにゃ暴れてるときに誰がどこにいて真剣な顔してたとか、作品を見てわたしには見えなかったその人の作業している時間のことを思ったりとか、本番を暗いなか待っているあいだのどきどき、夜道他愛もない会話をしたこと、オーロラ見えるよ!と教えてもらってみんなきっと空を見てたこと、踊ったあとみんなにぎゅっと抱きしめてもらったこと、ひとりで風に吹かれて雨に打たれて炎の音をきいて胸がいっぱいになって海に向かってひとりでずっと泣いたこと、
ぜんぶ、時間のなかに楔みたいに感覚が残っていて、そうしようと思えばその景色のなかに帰ることができる。
わたしのからだの感覚はタイムマシーンとか、しおりみたいだ。
その時に戻って、周りの景色をもう一度見渡せる。
その景色がほんとうにそのときのものだったかどうか分からなくなるまで、きっと思い返す。
ほんとうであってもほんとうでなくてもそれは私が見た現実だから、それでいい。
『春にして君を想う』という映画を見てからずっと行きたくて憧れていた土地のほんの端っこのことしか今回は分からなかったけれど、こんなふうに大事な時間やひとたちと共にこころに残ることになるとは思わなかった。
またきっと会えるひともいて思い出は更新されるかもしれないけれど、この1ヶ月のことはずっとずっと特別だと思う。
またみんなに会いたい。
わたしのはんぶんはアイスランドの生活のなかにまだぼんやり漂っていて、ときどき吹雪の音に耳を澄ましている。
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