春のはじまり、よび声
先週までしなかった花の香りが強く降ってきて、季節は進んでいっていると思う。
一斉に薄い色の葉を出した公園の木々を見ながら、ベルリンで迎えた春のことを思い出した。
私が滞在したのはベルリンの北側、パンコウ地区だった。
当時、ドイツW杯のために町じゅうの開発が進んでいたけれど、元東ドイツ側の土地はまだ開発途上で空き地が多く、滞在していた家は雑木林や小さな倉庫跡、工場などに囲まれていた。
最寄り駅のすぐそばにはチョコレート工場があって、風向きによってはチョコレートと醤油が混じったような香りが流れてきた。
その年は数年に一度の寒波がやって来ていたから、気温はマイナス20度になる日もあった。
わたしは、日本を出る時、母に「絶対に役に立つから持っていきなさい」と渡されたダウンコートを毎日着ていた。形も可愛くないし裏地が変なピンク色だったので絶対に着ない、と言い張っていたが、後から考えたらあのダウンコートがなかったら私はドイツで凍っていただろう。
駅に向かう雑木林はいつもぬかるんでいて靴が沈む。
朝や夜にはその水分がかちかちに凍り、一歩ごとに滑る。
転びそうで怖いし、寒いし、タバコも吸いたいし、わたしたちは毎晩げらげら笑いながら家に帰った。
駅中で買ったサンドイッチとお酒とろうそくと音楽を持ち寄って台所で飲み、飲み終えたワインの瓶にろうそくを立てて、またしゃべった。
一体何を話していたのか今となっては断片しか思い出せないけど、話はいつまでも尽きなかった。
いつまでも笑った。
ある少し暖かな日にぬかるみを歩いていて、視界がほんのり黄緑色であることに気づいた。
うっすら霧のように、眼の前の景色をいちめん薄緑が覆っている。
なんだろう、と目をぱちぱちして近くの木をみても、やはり枯れ木だ。
枯れ木なのだけれど、よく見たら小さな芽がところどころ出ている。
木全体を見るとやっぱり黄緑色には見えなくて、枯れ木の色でしかない。
けれど遠景になるととたんに、黄緑色にけぶる。
春の息吹の色だ、と思った。
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仕事の帰りにまだ明るかったから公園を通って帰ってきた。
いろんな鳥の声がする。
その公園には夕焼けがよく見渡せる丘があって、素敵な夕焼けの日にはそこに駆けつけることにしている。
エトルタ島で、崖をずっと歩いていったら、案外陽が沈むスピードが早くて引き返す前に夜がやってきてしまいそうになったことがある。
帰り道を急いでいると、海から立ち上った風が巻き上げていって、見上げるとかもめがいっせいに遠くを眺めていた。
振り向いたら今にも陽が沈みそうになっていて、かもめはそれを見ていたのだった。
ふらふらと体のバランスを取りながら、きゅっとした輪郭で、かもめたちはは夕陽を見てた。
たぶん毎日この景色を見ているのに、飽きたり、別に特別なものでもないやとは思わないんだな。
私も崖に縛り付けられていることをやめて、かもめのところまで一緒にのぼって、水平線を見た。
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クロウタドリの声だけは、耳を澄ましてじっと聞いてしまう。
フランスに来たばかりの時、毎朝クロウタドリの声を聞いていた。
夢かな、と思った。
なんだか南国の鳥の声に聞こえたから。
私は違う国にいるんだ、と毎日思った。
自分の耳が聞こえ、色が見え、ご飯が食べられて、少しずつからだの輪郭が知らない景色から浮き上がらないようになってゆくのが、不思議だった。
毎日、パリに来るはずの飛行機に乗れない夢を見た。
空港までどうやって行けばいいか分からなかったり、チケットを買えなかったり、いつのまにか出発時間を過ぎていたりする。
クロウタドリの声を布団の中で聞きながら徐々に目を開き、自分の手のひらと枕を交互に眺めて、ちゃんといる、とほっとした。
しっぽが素晴らしく長くて、大きな水色の鳥がこの声を出しているんだろうと想像した。たぶん、南の国の鳥なのだけれど、近所で飼われているんだろう、と。
でも声の主はクロウタドリで、クロウタドリはくちばしだけがアヒルの足みたいな色の、ほかは真っ黒な鳥だった。