Vivian Maier、輪郭が隔てているもののこと
Vivian Maierの展示を見にLes douches la galerieへ。
ドキュメンタリーも見たことがないし、けれどずいぶん前にSNSでいくつかの写真を見て興味があった。
ブザーを押さないと中に入れないような場所、しかも私がフランスに来て最初に訪れたOFII(移民局)に入り口の感じが似ていたので入るのを躊躇してしまった。
ふふっと笑ったり、何だか懐かしさにとらわれるような気持ちになった。
ヴィヴィアン・マイヤーのは生涯独身を通し、友人も少なく、年をとるにつれて周りの人たちのトラブルも多くあったというような記述を読んだ。
写真を通して感じた彼女のユーモア感覚や好奇心を私はとても好きだと思ったし、何かを密かに共有するような気持ちになった。
私も写真を撮ることが好きだ。
この頃は、気軽に現像をしたりフィルムを買えないので前のようには写真を撮らなくなってしまったけれど。
カメラを抱えて町を歩きながら、実は胸のうちはわくわくしていたり、もっときょろきょろ見回したいし、面白ければ笑いたいし、いつまでもしつこくひとところに居て見ていたかったりするのに、だけどやっぱり大人だから町のひとのペースに合わせて歩いてしまうし、緩んだ顔をするのも恥ずかしいので澄ましている。
友人に、いい写真が撮れたという手応えを感じると一緒にいる私に向かって「今のどうよ」と言わんばかりに満面の得意顔を向けてくる写真家がいるのだけれど、変なやつだと思いながらもやっぱりそういう風に素直なのは微笑ましくうらやましい。
写真で何かを捕まえた瞬間、わたしの内側はうわあっと膨らみ広がっていたり、大波が立っていたり、皮膚からそれが漏れるんじゃないかと思うくらいひかり輝いているのに、どうして表面的にはこんなに静かにいられるんだろう。
自分の内側で巻き怒っていることと、体の外側に表れ出ることの間のギャップを、私はどうして制御できるんだろう?
周りのひとを見回しながら、みんないったいこの顔の下で何を考えているんだろうな、何を感じているんだろ、不思議だ。
そんな時わたしは、世界のなかでわたしはたったひとりなんだなあということを考える。
わたしたちは隠さずに自分の内側を表現することだってできるわけだけれど、でも結局どこまでいったって実際には隔たりがあるわけで、そのまま伝わるわけじゃない。(伝わらなくって幸いである、とも言える)
踊りでだって、写真でだって、言葉でだって、それはそのまま渡せはしない。
なんとさみしく、大切なことだろう。
悲しいさみしさじゃない。秘密基地にいるときみたいなさみしさ。
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とても好きな短編の映画がある。
『パリ、ジュテーム』の中の『14区』という短編で、登場するのはたったひとりの平凡な中年女性。一人旅でパリに来て、あちこち歩き回って、色んなことをひとりで考えて、そして最後にあることが起こる。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真を見ながらその短編のことを思い出した。
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絵や写真が額に収まっている時、ガラスで作品と自分が隔てられているのがあまり好きではなかったのだけれど、(別の光が映りこんで見づらいのと少し遠い感じがするから)でもある時ルドンの絵を見に行って、絵の中の人物とガラスに映った自分がぴたりと重なった瞬間に驚いたことがあって、(それは若い仏陀の絵だった)その時から、特に写真を見る時に、その写真に写真を見ている自分や自分の背景が映っている、ということを、考えるようになった。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真には何かに映した自分を撮ったポートレイトや、自分の影を映した写真などが多くあって、私がさらにガラスを通して画面上に映り込んでいることが、その密やかになにかを共有したような気持ちになったことと重なって、面白かった。
撮影はOKだったけれど、あまりこういう風に写真を載せるのは気が引ける、(しかも格好のつかないことに私はiPhoneだし)けれど、なんだか大事な感覚だったので。
展示会場を出るとひとりの女の子と一瞬目が合った。
一瞬だったけれど、私たちはお互い何ごとかを語り合いたいような気持ちだった。
少なくとも、私は正面から彼女を写真に撮りたいような気持ちに駆られた。
でももちろん撮らなかったし、お互い何ごとかを語り合いたいような気がしたのだって、ただの私の気のせいだ。