見出し画像

同じ目の色のひと

長くて複雑なフランス語の文章を読む時に、まずとりあえずGoogle翻訳にかけてみることがある。
今日すごく理解に苦しむ文章があったのでコピーしてGoogle翻訳にかけようとして、はたと、それが日本語の文章であることに気づいた。
私はこのひとの文章が、全然わからないのだった。

私の部屋の窓からは集合住宅のベランダがずらりと見えているのだけれど、多くの家のベランダにカフェみたいな日除けがつけられている。
温かくなってくるとその青や白のひらひらした日除けの下でタバコを吸ったり、テーブルと椅子でくつろいだりしている姿を見ることができる。
風の強い日にはそれが波のようにたなびいて、風のやってくる道が見える。
パリにはなぜかカモメがたくさんいるし、お日さまの下で目を細めて眺めていると、海の気分になれる。

わたしは大人になっても人見知りが治らないのだが、出会ってすぐにこの人は大丈夫だと思える人と、なんだかいつまでも緊張してしまう人とがいる。
大丈夫だと思うと打ち解けられる嬉しさについついしゃべりすぎてしまうし、緊張してしまう人に対しては受け身になって会話も後手に回る。
何をもって解禁したり閉鎖したり保留したりという判断をしているのか、自分でも今だに説明ができない。
好きだから大丈夫なのかといえばそうでもないし、好きだから緊張するのかといえばそうでもない。
どうしてだかはさっぱりわからない。
でも、確かに分かるのだ。

小さい頃から「このひとは信頼できる」と何故か感じるひとがいて、そのひとたちはみんな同じ目の色をしていた。
転校の多かった私は、新しいクラスで挨拶をする度に「ここにもまたあの色の目の子がいる」と発見することになった。
そういう目を持ったひととすごく仲良くなることもあれば、それほどの仲にはならないということもあったけれど、心のどこかにいつもその人の存在があって、どっしりと体重をかけても大丈夫な甘えられるひと、いざというときに正しい判断をしてくれる信頼できるひと、という風に感じていた。
そういうことを本人に言ったことはないし、普段交流がないような人であることもあったので、もし本人に私が感じていたことを話したらびっくりするだろう。

この「同じ目」とはいったい何なんだろうな、何をもって私は「同じ目」であると感じているんだろうな、とずっと考えていた。

古武術の稽古に参加したときに、まっすぐ相手の前に立つ、そして相手を見る、ということをずっと考える時間があった。
これは舞台に立つときのあり方にも通じるものだった。

目玉は、頭のわりと表面についていて、そこでものを見ているように思い込んでいるけれど、本当はそこから取り入れた光はもっと頭の真ん中の方に映り込んで、像となる。
目玉に触れる表面だけで見えているものを受け取るとどうしても上滑りする、ような気がする。
見えているものは「見えている」んじゃなくて「見る」ことでもっと奥深くまで入り込んでくるし、もっと深くのめり込むように、包んで覆うように、そのものを像にする。
実際の目玉と網膜には数センチの距離しかないんだけど、その像を感じている「私の中心」はもっと後ろの方に広がっているような気がするので、そこに像が突き刺さるまでには、長くて複雑な柔らかさのある道が伸びている。(ような気がする。)

そうやって考えると、ものを見るという行為は呼吸と似ているし、耳を澄ますことにも、全身で立つということにも似ている。

舞台に立つ時にしっかり存在するために思い出すことは、自分は地球の表面に立っているんじゃなくて、私の軸が地球の軸を刺している、と思い込むことだ。
私の足の裏の面積は小さいから、地球にそれを載せているだけだといくらふんばろうとしてもついよろよろしてしまうけれど、私の背骨が地球の真ん中に突き刺さっているならばよろけたりはしないはず。
「見る」ということもこれにとても似ている。
私の目玉の表面だけで触れるように見ることと、頭の中心、私の感覚の中心から見ることとは、大きな違いがある。

「あの目」とは、見ている深度のことだった。
そのひとが目玉の表面だけでものを見ているのか、それとももっと目の奥でものを見ようとしているのか、そういうことを感じ分けていたのだった。
今でも目の深さで人をなんとなく見分けているようなところがあるし、それはだいたい私とそのひとの関係においては、そんなに的外れではない。
「色」として識別していたのはいかにも私らしい。

ブログを読んでくださって、嬉しいです!頂いたサポートはこれからも考え続けたり、つくりつづけたりする基盤となるようなことにあてさせていただきます。