狂気をSNSへ

こんちゃ。ガノタの餡抹茶です。


皆さんはSNSを使いますか?まぁnoteを使ってる人は他のSNSも使ってそうですが。
僕はTwitterとInstagramを使っています。Bondeeを始めてみたこともあったんですけどあんまり上手に使えず辞めちゃいました。

話は変わりますが、これは自論なんですけど、人は誰しもどこかに狂気を孕んでるものだと思っています。
それは例えば食に現れることがあります。バカの量をドカ食いする人や、バカの量でも砂糖をバカの量摂取できる人がいたり、激辛のものを美味しそうに食べる人がいたり。
他にも、他人には理解できない程一つのことに没頭する人がいたり、目的の為なら手段を選ばないマッドサイエンティストだったり、中には狂気の現れ方が社会と合わず警察の厄介になってしまうようなことをする人がいたりします。

僕の場合、狂気がSNSで発揮されるタイプだと自分で思っています。これの最悪なところがありまして、僕の場合のこの狂気には別にオモロ要素もなければバズるような話題性もなく、一つのことに没頭した結果でもないため、本当にただただ面白くもないやべぇやつにもなりきれない痛い人になりがち、というところです。
人より投稿頻度が高かったり、投稿内容が自分の尊厳をかなぐり捨てたようなものだったり、自分であとから見返すとなんでこんな投稿を知り合いに見られるところでしてしまったのだろうと思うようなものがほとんどです。そりゃあ友達減りますよ。

孕んだ狂気を浮かべた自身のSNSアカウントを「生き恥」と心の中で呼んでいます。
ここで心の中のグラ◯ム・エー◯ーが「生き恥を晒した甲斐が、あったというもの!!!」と仮面をつけ叫ぶ機会があればいいのですが、屁の役にもたたないようなアカウントなので、グ◯ハムさんにはワンマンアーミーになってもあのときの少年には会えない世界線を彷徨って頂くことになります。

僕はTwitterやInstagramをやっているのですが、一番よく稼働しているのはいわゆるリア垢、学校などの知り合いたちと繋がることをメインの目的としたアカウントになります。ですので、FFの人たちは、僕の本名も顔も知っているような人も多くいるわけですが、その人達の前で急に意味のわからない発言をするのです。学校では言わないようなことを。当然、健全で聡明な僕のお友達や先輩後輩は「うわぁ‥‥‥‥」と思うことでしょう。引かれます。ドン引きです。明日から一歩引いた対応をされてしまいます。腫れ物、触らないほうがいい。
そうして僕は順調に友達を減らし孤独への片道切符を手に入れるわけですが、ひとつ弁解させて頂きたい。

僕はもともと話下手でありまして、例えば友人にご飯に誘われた際、その食事会の場で楽しいお話を上手に展開する技術や、興味を持って聞いてもらえるような話題をあまり持ち合わせておりません。ですので、基本聞き手に徹する事が多いです。僕自身、人のお話を聞くことはあまり苦痛ではありませんので、聞いてるばっかりでも楽しく時間を過ごすことができます。楽しく過ごせるので、それでよいのです。
お話が上手でないので、食事会の場で出すような話題はないのですが、心の内でぼんやりと思っていることや考えてることがないわけではありません。一度喋らせれば、ある程度の時間話し続けることは出来ると思います。ですが、再三述べた通り、改まって集まってお食事をしながらの場で話せるほどの内容ではないのです。もし、その場でいざ話し出してしまえば、周りは愛想笑いし、あるいは爪をいじりだすことでしょう。僕は相手の話を聞くことが苦痛じゃないのに、相手が聞いていて苦痛になるような僕の話を聞く時間をわざわざ作る必要はありません。とはいえ、考えてることを言語化する機会はやっぱりほしいわけです。

心の内で溜まっていることを外に出したいが、他人に直接聞かせるほどのことではない。そうなったときに、TwitterやInstagramといったものは大変便利です。ありがたいことに、これらのSNSには「ミュート」「ブロック」といった機能があります。見たくないもの・見なくていいなと思ったものを目に入れないという選択肢を見る側が自由に選択できるのです。

対面で僕がつまらない話を始めた場合、周りにいる人間がそれを聞きたくないと思ったら耳栓をするか僕を気絶させるしかありません。しかし、耳栓をしてしまえば周りの他の人の声どころか心地よい小鳥のさえずりも聞こえなくなってしまいますし、僕を気絶させてしまえば一応人間の気を飛ばしたことになりますので放置しようにもまた違ったトラブルが起きかねません。また、万が一僕の話を聞いている人が他にいた場合、その人も僕の話を聞けなくなってしまいます。結末がわからない話ほど先が気になってイライラすることはありませんからね。当然のことです。
一方、僕の話を我慢して聞けば自ずと愛想笑いやスルーするタイミングが出てくることになりますが、話をしている僕も人間ですので自分の話に愛想笑いやスルーをされれば、心の中のゾル◯ン・アッ◯ネンは「傷つくし腹も立つんだがね」と一人ごちります。ゾ◯タンさんがマイナスの感情になることはあれど少なくともプラスの感情になることはありません。どっかで聞いたことあるような話だろ?コレ。

要するに、SNSであれば「クソつまんねぇことたくさん言うけど聞きたくなかったらもう耳閉じるなりどっかいくなりしていいよ」のスタンスでいられるわけです。特にツイートなんてつぶやき、ひとり言ですから、聞くも聞かないもあなた(=聞き手=フォロワー)の自由、ということなのです。

ですから、僕は定期的に「ミュート推奨」というツイートをしたり、Bio欄や固定ツイートに「ミュート推奨」の文言を入れたりしていることがあるのです。

……なんですが、幸か不幸か久しぶりに友人に会った際、度々「Twitterで見てるけど大丈夫?」「なんか情緒不安定なん?」と言われます。まあ見られてはいる、わけですね。いいねもツイートもしないからといって、友人のアカウントは亡きモノになったわけではなかったようです。

こちらとしては、「その大丈夫なのか心配になるような意味のわからない、情緒が不安定な思いの吐露を実際に目の前でされたいですか?されたくないですよね?ぼくもしたくないです。」の気持ちで対面でのお話ではなくSNSという場で言語化しているわけですので、あまり気にしないで頂きたい。スルーするか、冷笑・苦笑されてる方が数倍マシです。
いや心配して頂ける程度には僕のことを気にかけている人がいてくださることは大変ありがたいことなのですが、あんまりそれを直接言わないでくれ、気恥ずかしい。

で、これ以上に恥ずかしいことがあるのですが、極稀に僕のことを慕ってくれる後輩などがいらっしゃって、その方が僕がするようなツイートの構文や言葉遣いを真似したようなツイートをしたときです。僕のツイートを面白いと思ったのか、バカにしようと真似したのかは知りませんが、ただでさえ自分自身の過去の投稿を久しぶりに見ると痛々しくて恥ずかしくみっともない気持ちになるのに、それを他人に真似されるなんて共感性羞恥でこの世から消え去りたくなります。二度と見たくない。今すぐ焼却炉にぶち込んでなかったことにしたい。それ、黒歴史になるけど大丈夫?と本人に聞きたくなります。なぜこんなものを真似してしまったのか。あまりにも絶望的なセンスをしていらっしゃると。

また、SNSをする上で狂気があらわになる要因としては、自身がSNSでお見せできるようなキラキラ生活をしていないことにあります。先程までお話していたことは主にTwitterでの話なのですが、これは主にInstagramの方で現れます。

Instagramの投稿やストーリーを見ていると、FFのお友達や先輩後輩をはじめ、FFでない赤の他人の投稿もだいたいがキラキラしています。頑張った自分へのご褒美やオシャレな喫茶店、友達と遊びに行った報告や旅行先での一枚など。精一杯努力しているからこそ得られる人生の「ステキ」な部分。その「ステキ」はそれ単体でも写真映えしたり、良い投稿になるのですが、その裏側には、そこに至るまでの「頑張り」が、「努力」があります。仕事を頑張った。勉強を頑張った。アルバイトや部活を頑張った。人間関係の構築を頑張った。もしかしたら本人には生きていく上でなんてことないことかもしれませんが、頑張って生きたからこそ得られるものなのです。

これを書いている今の僕は、色んなことが頑張れなくなって一年間が経とうとしています。そろそろ復帰できそうではあるのですが、特にこの一年間、僕はとあることをきっかけに何もしたくない、いわゆる病んだ状態になってしまいました。それはまあ仕方ないのかもしれませんが、SNS、特にInstagramを見ると、「頑張れない今の自分」には得られない様々なものを得ている知り合いたちの姿があるのです。それはもちろん本人たちが頑張っている証ですので何も悪いことではありません。中高生の頃の旧友や大学の同期たちが自分の夢に向かって一生懸命勉強し、進路を決定させ、無事大学を卒業できたことは僕にとっても大変喜ばしく、嬉しいことです。
ですが、それはそれとして、甘えだと言われるかもしれませんが、そこには「頑張れない自分」とは決定的な差がどうしても生まれてしまいます。これはいわばコンプレックスの様なもので、僕が勝手に嫉妬しているだけです。読んでいるあなたが気を悪くしたなら大変申し訳ありません。

「頑張るみんな」と「頑張れない自分」とのギャップ。ひいてはそこに嫉妬してしまっている自分自身に対しても嫌気がさしてしまいます。みんなは何も悪くないのに、このまままっすぐな気持ちで見ているとみんなのことを羨む以上に憎んでしまいそうで、そんな気持ちを自覚して自己嫌悪に陥りそうで。いや既に自己嫌悪はしているのですが。

本当は自分と向き合い、正しく付き合っていくべきだという言い分も分かるのですが、そのために正気でSNSを見て暗くてモヤモヤしたものに心を支配されるぐらいなら、いっそ正気なんてかなぐり捨てて気を狂わせながらSNSした方がましだ!という考えなわけです。

さて、ここまで読んだ皆さんはお気づきでしょう。僕のお友達や先輩後輩は健全で聡明ですから途中で既にお気づきでしょう。
SNSを断てばいいのでは?と。TwitterやInstagramなんてやめて、アカウントを停止したりアプリを一回消して、ゆっくり違うことをする時間でもつくったらどうだと、そうお思いでしょう。

しかし、僕のことを「ある意味で」よく知る方はお分かりになるでしょう。
そんなことできるわけないと。だって僕は愛と承認に飢える化け物なのですから。それこそSNSを消したら人間そのものが狂ってしまうと。
ここで、最初に述べましたが、僕の自論として人は誰しも狂気をどこかに孕んでいるというものがあります。そして、その狂気の現れ方は人様々です。僕の場合はSNSに主に現れます。では、SNSを断つと本来SNSで現れていた狂気はどこに現れるのでしょうか?答えはおそらく実生活の中のどこかになります。それが生活に支障をきたすものだと私は困ります。対処法も付き合い方もまだまともに知らないのにいきなり生活の中で今までなかった狂気が現れると本当にどうすればいいのかわからなくなってしまいます。
SNSの狂気は、せいぜい痛いやつと思われて周りの人が遠巻きになっていくだけです。今のところ、ここまでそれで生きてこれており、大きな問題はありません。だったらこのままの方がマシだ、というのが僕の現段階での方針になります。

SNSで狂気をあらわにしてしまうことも、SNSをやめられないことも”さいあく”なのですが、これも一種の人間性なのかなと思い、うまく付き合っていくつもりです。人間性はキモいものですね。乳酸菌も人には人の、ですから、僕もあなたも人類皆にそれぞれの人間性はあります。それが人間らしさであり、愛すべきキモさなのです。

読者の皆様を超えて人類皆を巻き込む最悪の着地点にたどり着いたところで、今回は終わりにしたいと思います。もしここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、本当にありがとうございました。時間の無駄です。勿体ない。朝起きたくなくてまどろむ時間分寝れたのに。可哀想。
※誤字脱字が万が一ありましたら大変申し訳ありませんでした。あと途中ガンダムネタを挟んでるところがあります。読み飛ばしても大丈夫です。知らない方はごめんなさい。


ではこのへんで。あじゃじゃした。

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