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私の履歴書


生まれてから高校まで

昭和46年(1971年)4月11日。茨木市の鈴木産婦人科で生まれました。現場で仕事をする父は20歳、母は23歳、若い夫婦の長男としてこの世に生を授かりました。

父の実家は茨木市の東福井です。祖父が大工をしていたこともあり、長男である叔父さんは設計事務所をしていました。幼い頃、東福井の家に行くと削られた木材が積まれており、おがくずのいい匂いが今でも記憶が残っています。

茨木市東福井

幼稚園は大谷幼稚園でした。本堂の畳で昼寝をした時のひんやりした感覚、夏のプールでワニ泳ぎをした記憶が残っています。この頃はどちらかといえば内向的だったと思います。

大谷幼稚園

小学校に入る頃、中津町の文化住宅に移りました。玄関の横に小さな風呂とキッチンがあって、6畳と4畳半の続き間だけ。奥は幅45センチほどの縁側があって、吐き出しの引き戸を開けると雨よけのためのエンビの波板でできた簡易テラスが造り付けされていました。

中津町の文化住宅裏庭

1970年代中頃の中津町は、大型スーパーのダイエーはあったものの家の裏には田畑が残っており、土と昆虫と農作物に触れ合う環境が身近にありました。4年生まで中津小学校に通いました。内向的な性格もありながらも、母親に促され低学年から率先して学級委員長を志願していました。いつしかリーダー的な役割を担う子どもになっていました。小学校5年からは太田小に転校しました。文化住宅から大規模分譲マンションのに引っ越しました。3LDKの空間は文化住宅とは違い広さを実感できたが、隣接した畑がなかったため初めの頃は窮屈な感じがしていました。この環境で小5から28歳まで約20年暮らしました。

小学校高学年、中学はサッカーばかりの生活でした。活発な面が出始めて児童会、生徒会の会長やサッカー部のキャプテンなど経験しました。漠然とリーダーの資質を考え始めたのはこの頃です。

太田小学校

高校で出会った2つの原点

高校は府立三島高校へ。思春期特有の自我のめばえと共に内に秘めていた内向性が大きくなりました。17歳、高2の時に人生の種(原点)となる2つの経験があります。

一つは、高2の時に選択した物理の授業です。物理の先生には学ぶ喜びを教えていただきました。興味あることを生涯学び続ける価値に気づくことができました。授業中、ニュートンの運動方程式を黒板に板書して「美しいでしょ」と話された先生の姿は今でも忘れられません。それまでスポーツと受験勉強しかしていない人間が、よりよく生きることを考え始めると同時に理学部物理学科への進学を目指しました。この時「真善美を学ぶ価値」を体現しました。

高校2年生〜17歳の自分

もう一つ経験は、リクルート事件です。1988年(昭和63年)6月18日に発覚した日本の汚職事件です。キャプテンが信頼されないクラブチームが不幸なように、政治家が信頼されない国が幸せになるはずがない。政治はみんなが幸せになるためにすべきもので、私腹を肥やすためにするものではない。17歳の時に得た確信が、「信頼される政治」を目指す原点となっています。

この2つの原点が、今までの政治活動を推進する力となりました。「真善美を学ぶ価値」を政治に反映させるために、芸術政策、生涯学習政策、不登校支援へつながり、「信頼される政治」は100条委員会委員長、情報公開の推進、議会解散による市長選挙と同日選への提案などへつながっています。

物理学者への夢は実現できませんでした。理学部を目指したものの受験は全敗。大学への進学は諦めようと高3の担任に相談したときに渡されたのが、その年にたまたま開設される龍谷大学法学部政治学科の2次募集の案内でした。深く考えずに受験したら合格。期せずして法学部政治学科に入学することになりました。

大学時代〜政治、新聞配達、松下政経塾京都政経塾

政治学科に入ったものの、法律、経済、哲学、人文学など多くの分野に興味があったので学部と関係のない授業に出たり、図書館でいろんな本を読んでいました。学問としての政治が腑に落ちないまま乱読していました。現実の政治へ関わりたいなあ、と漠然と考えていました。そのために私の時代にはもう下火になっていた学生運動に参加すればいいのか。思案はしていたものの、ヘルメットを被った怪しい学生が集まっている校舎へ足を踏み入れる気にもなれず、もんもとした日常を過ごしていました。

大学1年の頃、政治活動の関わるきっかけを得るために奮い立って予備校の先生に会いに行きました。その先生は学生時代、全共闘の議長などをした英語の先生で、浪人時代に受けた授業が面白かったので約束もせず講師控え室を訪問しました。私が「政治の勉強をしたいので、何かお手伝いをさせて欲しい」旨伝えたところ、その先生は「ここは君が来るような場所ではない」という趣旨のことを言われました。幸い最前列で授業を受けていた私のことを覚えていてくれたようでしたが、政治活動や勉強会への参加は失敗に終わりました。今思い返すと先生の言葉は色々な意味に受け取れるのですが、当時の自分は革命を目指す学生運動に関わることは自分の道ではないんだ、と言い聞かせていました。

1993年大学2年の頃、友人から声を掛けられとうとう現実の政治の世界に関わることになりました。第40回衆議院議員総選挙です。6月18日の解散前に大学生が招集され、学校も行かずに政治活動に没頭しました。事前活動ではポスター貼りと個別訪問、期間中は個人演説会の会場設営や街頭演説会の場所取りなど最前線で関わることができました。生まれて初めて選挙という現実を経験して、学問としての政治と違い、リアルな政治を実感することができました。

大学生になったら実現したいことの一つに「一人暮らし」がありました。お金がなかったので実現不可能と思っていたところ、友人に新聞奨学生と言う制度があると教えられすぐに申し込みました。1994年大学3年からは新聞奨学生として一人暮らしを実現。住み込みの新聞配達員として1年間、休刊日以外は毎朝毎夕新聞を配達しました。風呂もないエアコンもない、ネズミが出没するボロボロのアパートでしたが、念願の一人暮らしを実現した自分にとっては最高の住居でした。新聞配達は1年間続けました。朝刊配達後、刷りたての新聞を読みながら政治、経済、文化、歴史などさまざまな時事問題について奨学生仲間と話し合ったいたことも、社会問題を考える良い学びになっていたと思います。そこで出会った新聞奨学生は、現在、新聞記者と警察官になっています。

新聞奨学生仲間

1995年大学4年、大学2年の時のつながりから第13回統一地方選挙の京都市議会議員選挙に住み込みで手伝いました。初めて地方議員選挙の現場を経験しました。ここで出会った先生には本当にお世話になりました。同年、お手伝いした市議の先生の奥さんから松下政経塾京都政経塾の募集があるけど興味があったら受けてみたらと言われました。それこそめちゃめちゃ興味があったので応募しました。自分が見てきた現実の政治を踏まえて、本当の政治とは何か、あるべき政治の姿を学びたいと思ったからです。もうこの頃には大学へ行くことが少なくなり、もっぱら興味を持った一般教養の授業を聞きにいくだけになっていました。

第13回統一地方選挙@京都市山科区

結果、無事に松下政経塾京都政経塾4期生に入塾することができました。大学で学ぶ学問としての政治とは違い、実社会で生きている人の話を聞くことができました。特に印象に残っているのが松下政経塾理事長の新井正昭さん、役員の上甲晃さん、政経塾出身の白井智子さん、小田全宏さんでした。京都政経塾は研修の最後に「地域から日本を変える」ための取り組みを発表しなければなりません。当時、自分には湧き上がるほどのテーマを見つけることができず同期のニュージーランド人留学生ドナルド・ロックスバラくんに協力する形で発表にのぞみました。テーマは、まだ使い始められたばかりのネットを使った新しい人材派遣のプラットフォーム(マッチングソフトウェア)についてでした。私自身はこの時点で将来政治家になるという確信は持っていませんでしたが、安易な気持ちで飛び込んでは利害関係に足をすくわれる、気をつけなければいけない世界だということだけは自覚していました。

松下政経塾京都政経塾

24歳〜松下幸之助との初めての出会いは、消化不良

京都政経塾に入塾して、松下幸之助と向き合うことになりました。幸之助さんは考え方が大きすぎて、当時の私には許容する力量がありませんでした。松下幸之助は綺麗事を言っていると決めつけて、向き合うことを避けました。ただ、松下政経塾の塾是、塾訓、五誓には大好きな言葉が並んでいました。現場でのアルバイトや新聞配達の経験をしていた私にとって丁稚奉公から大会社をつくりあげた幸之助さんの言葉は、働くこと、生きることを大肯定してくれる貴重な言葉でした。
五誓の「一、万事研修のこと 」が今でも好きな言葉です。

この頃には想像もしていなかったことですが、私は後年再び幸之助さんと向き合うことになります。15年後林英臣政経塾で、23年後にはPHP研究所の佐藤悌二郎専務(当時)に学ぶことになるのです。林先生も佐藤先生も晩年の幸之助さんに関わられた教え子のような存在の人です。

大学中退、本当の意味での人生の出航


京都政経塾を修了する時期に、大学を中退することを決めました。両親の期待を裏切ることになるので本当に申し訳ない気持ちではいましたが、自分の人生を手に入れられるかどうかの大事な決断でした。実は大学に入学した頃から、人生に敷かれたレールに強い違和感を持っていました。みんなが行くから高校へ行き、みんなが行くから大学受験をし、みんなが進むから就職すると言う社会のレールに対してです。いくら考えても、レールに乗って生きてく価値を理解できませんでした。私は、中退という決断をして自らの人生を出航することを決断しました。先行きは全く見えていませんでした。

現場の仕事、人のつながり、市議会議員への挑戦


大学中退後は建設現場、物置の組立て、政治活動などさまざまなアルバイトをしていました。デスクワークではなくてあくまで現場で働くことを意識していました。当時小林よしのりの『脱正義論』の中あった「日常へ帰れ」という言葉が、頭から離れなかったからです。そんな折、京都でのご縁から茨木市の衆議院議員候補の方とつながりました。全く想定もしていない流れでした。とんとん拍子に話が進み、平成13年1月、29歳の時に茨木市議会議員選挙に立候補することになりました。17歳の原点である「信頼される政治」の実現を掲げての初陣は、2649票をいただいて当選することができました。

2001年、1期目の選挙戦

いきなり経験する市議会の政治文化に驚きながらも、自分が信じる「みんなが幸せになる政治」のために政策を深めていきました。具体的には、中心市街地活性化、情報公開、行政評価システム、里山保全などでした。

ただ1期目の4年間は、自分は政治家として何を成し遂げるべきなのか、人生を賭けて政治家として成し遂げる使命は何なのか明確ではありませんでした。2001年の初当選以来、自分と向き合いなが志を立てようともがいていたと思います。2期目に挑戦した2005年は次点で落選。志が定まっていないので当然と言えば当然なのですが、再挑戦した2009年までの間、志を確立するべく活動していました。そして、2つの柱と出会います。一つは「自然、都市、建築」というテーマで、一つは「芸術」というテーマです。

「自然、都市、建築」

「自然、都市、建築」というテーマを深めるきっかけは、2000年放送のNHK人間講座「建築に夢を見た」(講師 安藤忠雄)という番組でした。この番組で人間を取り巻く建築の魅力を理解できました。建築、都市、自然は一体となって考えるべきテーマという意識を持つことができました。2007年には1級造園施工管理技士の免許も取得しました。

もともと祖父が大工で小さな頃から木材に囲まれた環境にいたこともあり、里山保全にも興味が向かいました。2003年放送のNKH人間講座「森から未来をみる〜黒姫高原で考えたこと」(講師 C.W.ニコル)という番組を見て実際に長野の黒姫高原へ足を運びました。里山保全、自然保全などをテーマにした京大のシンポジウムに参加しました。それだけにとどまらず、行動のきっかけを得ようと2004年森林大学14期生として修了し森林ボランティアリーダーになりました。森林保全、木材資源の有効活用、環境政策などはこの流れで学びを進めている私の柱の一つです。

「芸術」

もう一つの使命は、「芸術」でした。もともとスポーツ少年だったので芸術など興味も持たず生きていました。結婚してから夫婦で美術館に行くことがありましたが、ただただついて行くだけでした。ところが2002年、兵庫県立美術館の柿落としのゴッホ展で人生で初めて絵画から衝撃を受けたのです。その時もいつもと同じように、先に出ようと早足で歩いていました。柿落としのゴッホ展ということもあり、会場は混雑していて人を避けながら出口に向かっていました。最後の展示室を通りかかった時、混雑している人越しに一枚の絵が目に入りました。何となく目に入っただけなのに、足を止められてしまったのです。なぜこんな夜空を描いたのか、なぜこんな荒いタッチなのか、なぜこんなに心が動かされるのか、様々な感情が心に湧き上がりました。この瞬間から、絵画を見ることができるようになりました。

ゴッホの絵に感動した2002年から芸術にのめり込んでいきました。印象派から始まり西洋美術を見始めました。その後は、ジャポニズムとして近代ヨーロッパに影響を与えた日本美術に興味を持ち始め、浮世絵から近代日本画へと広がっていきました。しかし、現代美術だけは全く理解でずにいました。

転機が訪れたのは2007年、直島に行ったことです。ベネッセミュージアムや地中美術館など安藤忠雄の建築を見るために行ったのですが、そこで展示されている柳幸典の「バンザイ・コーナー」や大竹伸朗の「直島銭湯「I♥湯」」などにより現代アートの面白さを気付かされました。2010年には直島を中心に第1回瀬戸内国際芸術祭が開催され国内外から約100万人規模が訪れる芸術祭となっています。単に鑑賞するだけでなく地域活性化など現代アートの様々な可能性を理解することができました。ここから芸術政策を柱の一つとして取り組み始めました。

茨木にも芸術政策を推進したい。そのために大阪でアートに関わる機会を得ました。2009年、水都大阪にボランティアスタッフとして参加。中之島公園に停泊するヤノベケンジさんの作品ラッキードラゴンを説明する役割を担いました。ヤノベケンジさんは茨木市出身の現代美術家です。この時のご縁が後々につながります。本市にサン・チャイルドを設置する流れと茨木芸術中心というアートを支える市民活動グループの立ち上げへとつがって行くことになるのです。

京都造形芸術大学ウルトラファクトリーと南茨木駅前

2009年1月、無事に2期目の選挙に当選

2期目からは成し遂げたいことが明確になっていたので、「自然、都市、建築に関わる政策の推進」と「芸術政策に関わって分野を超えた事業の推進」を取り組み始めました。茨木市外の人から見ても魅力的な質を持った事業になることをこだわりました。都市の魅力は市外から見た魅力と言ってもいいからです。

林英臣政経塾と出会い15年


ちょうどその頃、2期目を当選した2009年の11月25日、福丸議員に紹介をいただき林英臣政経塾の拡大講座に参加する機会をいただきました。林英臣先生による武士道の講義は、政治家としての覚悟の定め方を学ことになりました。2010年1月から始まる林英臣政経塾政治家天命講座第5期生として入塾いたしました。

林英臣先生は松下政経塾1期生で直接、松下幸之助さんから学びを得た人でした。24歳の時に松下政経塾京都政経塾で松下幸之助さんを受け止めることができなかった私が、再び松下幸之助さんと向き合うことになったのです。

林英臣政経塾では、武士道、文明論、大和言葉、東洋思想、安岡正篤、松下幸之助など日本という立ち位置を自分に落とし込んだ上で、世界を見据えた己の役割を問い続けます。自分の原点を掘り下げ、時間的にも空間的にも世界観を広げる学び追求します。そして、自身の人生を掛けるべき使命を自覚して、日々の活動を徹底するために研鑽を続けるのです。

同志と

本塾での学びは、自分の見出しつつあった志「自然、都市、建築」と「芸術政策」を世界史的な視野と結びつけるきっかけになりました。

参考に、林英臣政経塾の建塾の精神を以下に記載します。

「林英臣政経塾の目的は、現代文明を超える共生文明の創造とその先駆けとなるよう日本を改新することにある。我々はその担い手となって、一回限りの人生を歴史の大舞台に上げ、「狂挙」に生き抜くことを誓い合うものである」。

「林英臣政経塾 五誓」の一つである「大局大器の事」には、次のように記されています。

「こせこせ小さくまとまるな!大宇宙を呼吸し、もっともっと大きく生きよ!世界を、日本を、我が事と思って心配しよう。歴史を学んで先人の無念を受け継ぎ、子孫には勇気と誇りを与える生き様を残そうではないか。」

林塾で38歳から徹底的に志を磨きました。心身の研鑽も続けました。人生を掛けて本当に実現したいこと、たった一人になっても成し遂げたいことについて腹に落とすことができました。

同志と禊

その後、2013年に3期目の当選を果たし、現在まで5期目の活動をさせていただいています。

副議長の時

現存在という場所から


私は宣言します。

ウクライナや中東で戦争が継続し、アジアでの安全保障環境が悪化する世界史的激動期に、今後30年団塊ジュニア世代が高齢化する中で初めて経験する人口減少・超少子高齢化社会を乗り越え、真に豊かで幸せな日本を創るために、茨木市を立ち位置に政治を前へ進めます。

そして、
「自然と共生する持続可能な国土を創る」
「異なる他者と寛容に向き合うことができる現代美術を中心にした芸術立国を推進する」

この二つ志を実現するために、茨木市から政治を創ります。


三島が自決して54年、林塾と出会って15年
令和6年11月25日
上田ミツオ拝


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