【0V0 fixed】 ep.00ツールドフランス
ピストカルチャーの歴史を綴るシリーズ
『0V0 fixed』
ep.00の特別編としてツールドフランスの成り立ちと、自転車競技における固定ギアの存在を記す
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1903年7月フランス。貴方は農村部の利己的なブドウ農家なのかもしれないし、マルセイユの露店カウンターで一日中直立しているだけの暗算特化型人間レジだったかもしれない。
どちらにせよ重さ10数キロのスチールバイクが眼前を幾度か通り過ぎる。独特の接地音をまき散らし、不規則にやってくるこの集団はパリに栄達を求めていた。
ep.00 ツール・ド・フランスと固定ギア
1.ドレフュス事件
1-1.ドレフュス事件
1894年フランス。
__ドイツ宛に送られていた軍の機密情報。彼の書く文字はそれが記された手紙の筆跡によく似ている。そして経歴書類には血に濡れたハンカチ以上の欠点があった。__
”ユダヤ系”陸軍大尉であるドレフュスの背負う十字架には靄がかかっていた。別に生活に困っていたわけでもなければ、急に裕福になったわけでもない。にもかかわらずフランス軍法会議にてドレフュスは、ドイツに情報を売ったスパイとしてギアナの悪魔島への終身流刑が科せられた。
流刑の後、軍の情報局長であるピエール少佐が真犯人を突きとめたが、軍の威信と、第三共和制下で強まる反ユダヤ感情を踏まえ、一度目は事件が糊塗された。
真犯人であるエステルアジが軍法会議にかけられたのは、糊塗がドレフュスの兄の耳に入った後のことであった。エステルアジの判決は無罪。無罪結果を受けて小説家ゾラや進歩的共和派が弾劾運動を開始し、世論はドレフュス支持派と反対派に分断された。ツール・ド・フランスの起源はこの大事件にある。
1-2.ディオン伯爵
反ドレフュス派の実業家で貴族でもあるディオン伯爵は激怒していた。忌々しいのはドレフェス派のルベール大統領だ。
__ここオートゥイユ競馬場は我々のような貴族を中心とした反ドレフュス派の遊び場である。それを知りながら、わざわざ事件の再審が命じられた翌日に観戦に来るなんて、あの大統領は頭がおかしいんじゃ無いのか?__
憤慨したのはディオン伯爵だけではない。激怒した貴族の大群は競馬場でルーベル大統領に対峙した。大統領が席についた時、直ぐにデモは大規模で暴力的なものとなった。この件でディオン伯爵らは逮捕される。
事件を受けたル・ヴェロ紙の編集者ギフォードは新聞内でデモを痛烈に批判した。これは少しだけ冒険だった。ル・ヴェロ紙はディオン伯爵の経営する自動車会社から多額の資金援助を受けていたのだから。
当然、ディオン伯爵と彼の同盟者たちは、ル・ヴェロ紙への広告を取り下げた。代わりに、豊富なジャーナリズム経験を持ち、なおかつ世界初のアワーレコード樹立者であるアンリ・デグランジュを編集長に指名し、独自のライバル紙であるロト紙を創刊することに決定した。
ディオン伯爵は新聞の運営の全てをデグランジュに任せ、ただ一つだけの指示を残した。
「ル・ヴェロを廃業に追い込め」
1902年のロト紙の発行部数は、常にル・ヴェロ紙の4分の1程度であった。危機感を覚えたデグランジュは、若手記者であるルフェーブルの提案するマゾヒスティックな自転車レースに耳を傾けた。
翌年ツール・ド・フランスと呼ばれたこの自転車レースはロト紙にとって大きな成功を収めることとなる。ロト紙の発行部数は初版発行後の約25,000部から65,000部に増加し、更にその翌年、ル・ヴェロ紙は刊行を停止した。
2.自転車競技と固定ギア
2-1.ツールドフランス
世界最高峰の自転車レース。"第1回ツール・ド・フランス"は1903年の夏に固定ギアで行われた。既にフリーホイールを備えた自転車が街を駆けていた時代の話である。
この時代における一般道を使った固定ギアでのレース。それは必ずしも危険性を担保とした刺激的な演出を意図していたものでは無い。ただ偉大なる自転車レースにおいて、車輪とペダルが完全に従動していることは、その車輪が円形であることと同様に普遍的だった。
紳士のスポーツと言われる故、正装に厳しいのだ。ツール・ド・フランス以前から存在する"パリ~ブレスト~パリ"や"パリ~ルーベ"のような格式あるレースも固定ギアで行われており、これはタキシードについた蝶ネクタイに近い。
脚の回転が無くとも惰性的な推進の恩恵を授かるフリーホイール機構。険しい峠道を長閑な平坦の姿へ変えてしまう変速機。これらを身につければ真の意味で自転車で競走をしているとはとても考えられなかった。
第一回ツール・ド・フランス最高責任者であるデグランジュは、当時の自転車業界の技術進歩にこう言及している。
「やはり変速機は45歳以上の人向けだと思います。自転車レースというものは変速機での調略ではなく、筋力で勝つことに意味があるのではないでしょうか。勿論、ディレイラーという機材開発への試みは評価します。しかしこれに興味を抱くべきなのは我々では無く、我々の祖父母世代だということです。私が自転車に乗れと言われれば、当然固定ギアを選びます。」
言葉通りデグランジュは、ツール・ド・フランスにおけるフリーギアと特に変速機の採用を拒んだ。
ツール・ド・フランスの全カテゴリーにおいてフリーホイールの使用が認められたのは、本格的な登りがコースに組み込まれ始めた1907年。変速機に関してはおよそ四半世紀後の1937年である。大病を患ったデグランジュがレース責任者の座を息子に譲った翌年のこと。これはレーススポンサーである製品メーカーからの圧力によって、認められたと言っていい。
現代のツールほど険しいコースプロフィールではないにせよ、それまで選手たちは一枚のコグでピレネー山脈の険しい峠道を登っていた。
ヨーロッパにおいてのデグランジュのような固定ギアへの固執は時代特有の潮流ではない。確かに現在のロードレースシーンにおいて、モン・ヴァントゥを固定ギアで駆け上がる苦悶の表情を目にすることは絶対に無いと言える。それは過酷な山岳コースであったり窮屈なコーナーリングに対して、固定ギアでは物理的に対応が不可能だからである。対して平坦な自転車競技場で行われるトラック競技は、6日間の1000マイルレースが花形だった約150年前から様式を変えず、固定ギアが使われている。
2-2.トラック競技
トラック競技=自転車競技場内の走路で,タイムや着順を争うレースの総称。
トラック競技でシンプルな固定ギアが使い続けられる背景とは多少複雑である。文化、競技的平等性、エンターテインメント…。
1870年代のイギリスから始まったこのスポーツの明確な答えを知る者は多分…そんなにいない筈だ。ここから先に記する考察は、例えば岩石にサンドペーパーを数回擦りつけて削り取れる程度、表層的な部分。決して本質では無いので注意してほしい。
UCI(国際自転車競技連合)は技術規則においてこう定めている。
__自転車競技は機械に対する人間の優位性を明示した上で平等な立場で参加できることを前提とする。__
複雑な言い回しだが、ようは自転車競技とは機材同士の戦いでは無く人間による競走であることを主張しているのだ。勝負の場がレースから研究機関に移る事や、予期せぬメカニカルトラブルが勝ち負けを決する可能性を極力排除したいのだと読み取れる。
この原則を基にすれば、ロードレースとは違い、クローズドな平坦で行われるトラック競技に変速機やブレーキといったインシデントをあえて持ち込む必要もない。固定ギアでブレーキの無いシンプルな姿こそがUCIの理想である人間の力の競走に歩み寄っている。結局のところ地球がアイロン掛けされていればツールドフランスだろうと固定ギアが使い続けられていた筈なのだ。
とはいっても近代的なトラック競技は、ロードレース以上に機材的要素が勝ち負けに影響を与えている。競技条件がシンプルな故に、空力実験においての再現性が高く、データが蓄積されやすいのだ。
そのため近代のUCIは、純粋な人間の力による競争を主眼に置いているというよりは、人間と自転車のシナジーに着目している。
F1ほどマシンの調子に影響されず、陸上100m走ほど脚の馬力に影響されない中間点を突き詰める事でスポーツとしての価値を高めているのだ。
3.最後に
ちなみにドイツ、ベルリンではアウトバーンを組み込んだ平坦コースにて、非公式の固定ギア世界選手権が毎年行われている。(今日行われます※執筆時2023年7月2日)
最後に固定ギアの存在意義を形容した、偉大な自転車選手の言葉を綴る。
「固定ギアのシンプルさに私は惹かれてきました。単純であるからこそ、ある種心理学に近く感じます。何故なら固定ギアに乗ってしまえば、ギア比やブレーキングに対して決定を下す事はできません。100%自分自身と向き合うことになるのです。」
結局のところ、この精神性は、次回記事である"NYスタイルのバイクメッセンジャー"の多くが固定ギアを使う信義的側面と似ている。
選手の名をクリス・ボードマンという。
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