気まぐれな神様の"given"考ーー青年たちは何を与えられているのか
7月11日からアニメ「ギヴン」の放送が始まる。
「ギヴン」は確かに人気のある作品だけれども、個人的な思い入れもあまりないし、コアな商業BLファンからすると、「なぜ今、ギヴン?」という思いは否めない部分もあった。
そんな自分の中の疑問に答えを出すために、改めて読み返してみると、今までにない新たな発見があった。今回はアニメ化に向けての整理もかねて、「ギヴン」について、「気まぐれなジャガー」と比較しつつ書いていく。
※以降、「ギヴン」「気まぐれなジャガー」両作のネタバレを含みます。
仮定: ギヴンとは何か
ギヴンはいわゆる「バンドBL」と呼ばれるものの代表的な作品だ。バンドBLブームのようなものを作り出した存在と言ってもいいだろう。
高校生とその少し上くらいの青年たちがバンドを組んで成功を目指すサクセスストーリーの中で、メインのバンドメンバーによる恋愛模様が展開していくといったあらすじの作品である。
高校生の上ノ山立夏は秋彦と春樹とともにバンドを組んで活動しているものの、今一つ熱中しきれない日々の中で、不思議な雰囲気の同級生・真冬と出会う。
真冬が持っていた弦の切れたギターを修理したことをきっかけに二人は急速に接近していき、立夏は真冬の歌声を聞いてバンドに誘う。
立夏と真冬が音楽を通して気持ちを通じ合わせていき交際に至る一方、同居人であり元恋人である雨月とのままならない関係に苦悩する秋彦と、そんな秋彦に思いを寄せる春樹も、お互いの感情をぶつけ合っていく。
「ギヴン」というタイトルは、物語の中心となるバンド名でもある。
バンド名を決めるにあたり、真冬が提案したgiveという言葉に、秋彦がもともとのバンド名であるthe seasonsからアレンジし、"ギヴン"とした。
このタイトルに真冬の愛用ギターであるギブソンがかけられている側面もあるが、そこに込められた意味を考えてみたい。
英単語のgivenは、giveの過去分詞形である。
与えられたもの、所与のもの、という意味となる。
天性のものという意味もある。
また、文頭に使用することで、「~と仮定すると」というイディオムにもなる。
ギヴンにおいて、青年たちに"与えられている"ものとは何だろうか。
それは才能であり、そして所与の状況だ。
真冬にとっての歌であり、自殺した元彼が遺したギターである。
秋彦にとっては雨月であり、バイオリンだ。
それらは、この物語の中でどのような意味を持つのだろうか。
本当の意味で、彼らが与えられているものとは何か。
比較: 「気まぐれなジャガー」
バンドBLの名作はいくつかあるが、ギヴンと同様、長期連載として支持を集めるビッグタイトルと言えば、ウノハナ「気まぐれなジャガー」があげられるだろう。
「ギヴン」が青少年たちの青春物語をリアルタイムで追う物語である一方、「気まぐれなジャガー」は大人になったバンド青年たちの過去と現在の交錯である。
音楽雑誌の編集者である新のところに、海外を渡り歩く恋人の宗純が帰ってくるところから始まる。宗純は伝説的なバンド・pegの天才ギタリストであったが、突発性難聴を患い引退、バンドも解散した。
もともと地元の幼馴染であり、新が宗純に音楽を教える中で恋仲になった二人だが、宗純の才能への嫉妬から別れを告げ新は東京に発つ。追いかけてきた宗純と新は復縁するが、新は二人の関係を保つため、音楽活動をしないことを伝える。一方、現在の時間軸では、新のサポートのもと宗純は音楽活動再開に向けて始動していく、というストーリーだ。
この二つの作品は、共通するところもありながらも非常に対照的であると考える。
ここでギヴンと気まぐれなジャガーを対比しながらそれぞれの特徴を描き出していきたい。
シンボルとしてのギター
まずはわかりやすいところから始めていこう。
この二つの作品に共通するところは作品を象徴するようなギターがあることだ。
(なお、私は楽器やギターの専門家ではなく、あくまで自分で調べた範囲の知識であることをご了承願いたい)
気まぐれなジャガーでは、そのタイトルの通り、もちろんフェンダー社のジャガーが作品を象徴するギターである。
これは宗純の愛用ギターではあるのだが、もともとは宗純の恋人・新が初めて自分で購入したギターで、新によるこのフェンダージャガーの演奏を聴いて宗純はまさに音楽に興味を持ち始めたという経緯がある。
一方で、ギヴンで真冬が自殺した元彼の形見として大切に持っているのは、ギブソン社のES330モデルだ。
フェンダー社とギブソン社という二大ギターブランドをそれぞれモチーフにしているだけでも興味深いが、さらに興味深いのは、それぞれフェンダーのストラトキャスター、ギブソンレスポールという両社のフラッグシップモデルを使用しているわけではないことだ。
気まぐれなジャガーで登場するジャガーは、作中でも言及があるように変わったモデルとして知られ、ギブソンと比較して扱いやすいといわれるフェンダーのモデルの中でも癖があると言われている。
フェンダージャガーの使い手と言えばなんといってもニルヴァーナのカート・コバーンだ。作中で新が買ったのもカート・コバーンモデルである。
カート・コバーンは、ニルヴァーナのフロントマンとしてカルト的な人気を誇ったが、27歳のときに自殺し、以降27クラブの一人として知られる。
他方、真冬が使用しているES330はフルアコと呼ばれるもので、アンプにつないでアコースティックギターの音を出すことができるものだ。
ちなみに、このES330と見た目がそっくりなギターにES335というモデルがある。こちらはアコギとエレキの中間の音を出すことができるセミアコというモデルで、このES335の著名な愛用者が他でもない、カート・コバーンの自殺に反発してLive Foreverを作ったといわれるオアシスのノエル・ギャラガーだ。
もちろんさすがにこれはこじつけに過ぎないと思うが、永遠の生を謳うオアシスと死に向かうニルヴァーナの対称性を考えると奇妙な偶然でもある。
作者の同人時代の影響
もう一つの重要な共通点が、ギヴンも気まぐれなジャガーも、作者の同人時代のジャンルに多大な影響を受けて作られた作品だということだ。
BL作家の同人時代について言及することは、ある種のタブーとはいえるかもしれないが、私はこのことを批評に含めることは重要であると考えるし、必要なことでもあると考える。
よしながふみ作品におけるスラムダンク同人時代のように、BL作家の作品に同人時代のジャンルが大きな影響を及ぼしていることは間違いないことだ。
その中でも、ギヴンと気まぐれなジャガーは特に、その影響が大きいと考える。
2000年代にヘタリア同人を経験した人間なら、ギヴンを読んだだけでその影響力の大きさを感じ取れるだろう。
しかも、ギヴンは明確に、刺傷時代の作品のテーマを引き継いでいる。
当時、ヘタリア同人界隈で伝説的な人気を誇ったサークル・刺傷の、金字塔ともいえる同人作品、それが「SHIKI」シリーズだ。
このシリーズにおける”四季”というテーマはギヴンにおいて、真冬加入前のバンド名「the seasons」と登場人物4名の名前に直接的に表されている。
一方の気まぐれなジャガーは、2011年にアニメ化されたジャイアントキリング二次創作の影響を大きく受けつつ、バンドものとして落とし込んで描かれている。
宗純のキャラクター、宗純と新の関係性、別離から宗純の突発性難聴による一線からの引退、そして表舞台への再来というストーリー構造は、まさにそれをほうふつとさせながら、さらにそのテーマをさらに一歩踏み込んだ深い関係性を描き出しているといえる。
これらの情報は、まったく余計な情報に感じられるかもしれないが、一方でこれらを踏まえるか踏まえないか、意識せざるをえないかどうかで作品の読みや解釈、位置づけが全く別物になってしまう。
コマ割りからみる時間のとらえ方
さて、表面的な部分はこのくらいにして、もっと作品の内部に踏み込んでいこう。
キヅナツキの白眉と言えば、なんといってもト書きと組み合わされた絵の圧倒的な説得力にあるだろう。
特に見開きをぶち抜いた一枚絵において、ト書きを効果的に配置することにより、読者をくぎ付けにする”瞬間”を描き出す。
その瞬間を表現するのが圧倒的にうまいのだ。
(「shiki/冬」において、誰にも真似できない表現で「ある一瞬」を描き出していたことが鮮明に記憶に残っている。)
それが端的に表れているのが、初めてのライブで真冬が「誰かにわかってほしい、すこしだけでいいから」と歌うシーンである。
このフレーズは作中を貫く軸となるキーワードであるのだが、それが真冬のシャウトの画の上に「すこしだけでいいから」という大きなト書きが重なることで、真冬の切ないまでの気持ちがまるで迫ってくるように伝わってくる。
ギヴンにおいて、このト書きと絵の組み合わせによるある瞬間の切り出しに、感情が載せられて画面を飛び出してくるのである。
ギヴンのキャラクターたちは、ある種とてもキャラクターとして完成されている。またそのシチュエーションや物語の運びも、人間の生々しさというよりは、作り物めいた美しさを感じる。
しかしだからこそ、その瞬間に込められた感情が一層生々しく感じられるのだ。
キラキラしているものの明らかにそれとわかるほどの作り物の箱庭に、むき出しの感情が込められている。
だからこそ感情だけがぐっと「こちら側」に迫ってくる。その瞬間、奇跡が起きる一瞬を描いているのだ。そしてその一瞬は、もう二度と戻ってこない。
過ぎ去っていく一瞬の時間、それが”季節”なのだ。
キヅナツキが得意とするのがト書きと絵の組み合わせだとしたら、ウノハナの世界はコマ割りの魔術によって成り立っている。
マンガ表現論において、コマとコマの連続性は時間の流れを表すと論じられる。コマとコマの隙間は流れていく時間の間隙なのだ。
そのコマによって切り取られた時間をもう一度連続させていくこと、それこそがウノハナが生み出す時間のマジックだ。
コマによって切り取られた風景は連続している、時間の連なりの中にあるからこそ意味のある状況を描き出している。
そして、気まぐれなジャガーの世界は、カート・コバーンが死んだ世界であり、音楽誌がバンドの2万字インタビューを掲載する世界だ。
そこにはある「文脈」があり、「歴史」がある。時間の蓄積と空間的な広がりの中を宗純と新は歩んでいく。
永遠に長く繰り返す時間、すなわちめぐりゆく季節の中での一瞬、もう戻ってこない一瞬を描くギヴンに対し、一瞬一瞬の積み重ねによって気が遠くなるほどに長い時間、すなわち人生という三次元の時間、道のりを描く気まぐれなジャガー。
その対照的な時間の描き方が、すなわち世界観の違いとなって表れてくる。
物語における「所与のもの」=運命とは
ギヴンにおける所与の状況とは、逃れられないものとして描き出される。
真冬がと付き合ったこと、自殺してしまったこと、そしてギターを託されたこと、立夏に出会ったこと、秋彦にとっての雨月、雨月にとっての秋彦、すべてが逃れられないものなのだ。
それを人は確かに運命と呼ぶだろう。
気まぐれなジャガーにも運命と呼ぶしかないものはある。
宗純の才能、新の才能、宗純の突発性難聴などがそうだ。
しかしどうしてこうも受ける印象が違うのだろうか。
それは彼らに「与えられたもの」、ではあるのだが、しかし本質的には異なる。
気まぐれなジャガーにおいて、所与の状況というものは、根本的には存在しない物語構造になっている。
なぜなら、気まぐれなジャガーにおける所与の状況とは、宗純と新が選択してきたこれまでの過去であり、その点で本質的に「与えられた」ものとは言えないからだ。
宗純がギターを始めたこと、二人が恋に落ちたこと、新が宗純に別れを告げたこと、宗純が新を追いかけてきたこと、新の音楽への断念も、すべて彼らが選択してきたことだ。
その結果として今の彼らがある。
自らの意思で選択すること、それこそが、この物語で「ロック」「ロックな生きざま」として、位置づけられるものなのだ。
ギヴンでは、すべては与えられている。すべてが与えられた世界において、人はその運命を受け入れつつ、それに抗い、もがいていく。
その中で描かれるのは切なる祈りのようなものだ。圧倒的に大きなものの前で、吹けば飛ぶようなちっぽけな存在が、何かを覚えていたい、何かを伝えたい、わかってほしいと己の存在をかけて歌う声。
気まぐれなジャガーでは、自らを縛るのは自らの過去に他ならない。置かれた状況を作り出したのは自分自身であり、戦う相手は常に自分である。
それが気まぐれなジャガーの世界であり、モラトリアムを抜けた後の世界なのだ。
それはいい悪いでは測れないし、単純な自己責任論でもない。ただ彼らは自分たちの選択の上に現在がある「という運命」を受け入れて、先に進むのだ。
それがたとえ、「選ぶことがあらかじめ決められている」ことであっても、自らの意思でそれを引き受けていく。
そこでは、彼らはどんな道を選ぶことができるし、お互いの選択は常に相互に影響しあう。
さらにいうのであれば、彼らは選択しなおすこともできる。選択を上書きすることもできる。
”given”と名付けられた物語で、真冬は遺されたギターから出発し、新しい歌、新しい関係、新しい人生に踏み出していく。立夏は、安寧な日常を捨て、誰かと生きていくことを選ぶ。
なぜ、与えられた以上のものを求めてしまうのか?
なぜ、彼らは与えられたものに満足せず、抗い、自分に与えられていないものを求めるのか?
それこそが夢を見ることの本質なのかもしれない。
それこそが青春なのかもしれない。
一方で、私たちは日常を生きている。
全く意味をなさないかのように連なる時間の連続の先に人生がある。
あまりにも長すぎる人生、その先にある「死ぬには年を取りすぎた」世界、それこそが我々の人生そのものではないだろうか。
この二つの物語は、単に人生のある異なるフェーズを表しているに過ぎないということもできるだろう。
一瞬で過ぎ去ってしまうがゆえに永遠となる青春時代と、モラトリアムを抜けた、恐ろしく長い道のりを一歩一歩踏みしめていく成熟した者の人生。
私たちの人生にはその二つの時間があるに過ぎないのかもしれない。
普段、私たちはそれを同時に体験することはできない。並べて比べることもできない。
しかし、今、私たちはこのように二つの物語をこうして見比べてみることができる。
それは限りない僥倖にも思える。ギヴンと気まぐれなジャガーという二つの全く異なる哲学が出会うことのできる世界を、私は幸運に思う。
さて、アニメ化にあたって、ギブンという物語の真骨頂がト書きと組み合わされた画の説得力であるとすでに述べた。
画はアニメの作画であり、トレーラーを見るに申し分ない。となれば後は、ト書きにあたる部分、すなわち「声」だ。
ここでどれだけの説得力を持たせられるか、感情を乗せられるかがキモとなると考える。キャスト陣の演技に大いに期待しよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?