【長編小説】ダウングレード #22
西川は今日も耀の家に居座っている。確か三日前に言われた言葉は「今晩泊めて」だったはずだ。自分は何日でもどうぞなどと言ったろうか?
西川は無口であまり話さない。朝起きて髭は剃るが(デリバリーを頼んだ時に菅原がテーブルに置きっぱなしにした小銭でシェーバーを買っていた)、あまり動き回らず身支度をし、耀の用意ができるのを待って一緒に出勤する。ここ数日は出張もないのか定時に終わるらしく、耀が帰宅するとすでに西川が部屋にいて、膝を抱えてヘッドホンで何やら聴いている。音漏れすることもなく、ひたすら静かだ。時折部屋の中を移動する耀の気配に視線を動かす様子は、大型の黒い犬が部屋にいるようだった。
食事をする時は西川はヘッドホンをはずしたが、時々ふっと何か聞こえたかのように視線を漂わせることがある。それも犬っぽい。
寝る時もヘッドホンをつけて寝ているので、三日目の今日、何を聴いているのか尋ねてみた。
「何も聴いてないよ」
西川は愛用の寝袋に足を突っ込みながら言った。
「これはハマナ技研が開発したノイズキャンセルができるヘッドホンで、試用品らしい。人の頭の中の映像を受信してしまうことが多くて、なかなかリラックスできなかったんだけど、これつけてると遮られるみたいでよく眠れるんだよ。菅原さんにも勧めようと思ってるんだ」
「菅原さんも西川さんみたいに映像が見えるんですか?」
「いや、菅原さんの能力は俺のとはちょっと違ってる。菅原さんが受信するのはそれとは別で……」
西川は右手のこぶしを顎の下に当てた。
「俺がテレビだとすると、菅原さんはラジオ、じゃなくて、……音声ってわけでもないから……、ダウンロード? いや、もっときっと高速で……」
西川は黙ったまま耀を見返すと、しばらくしてから諦めたように視線を離し、寝袋に潜り込んだ。途中でほったらかしかよ。耀は西川が横になった後も何か言うのではないかとしばらく待っていたが、聞こえてきたのは西川の寝息だった。
この人がストーカーです。そう言った和佳の顔が繰り返し頭の中で蘇ったが、その表情は次第にきつくこわばったものに変わっていく。もう実際の表情がどうだったのか、よく分からない。あの言葉は彼女の本心なのか。その数日前までメッセージをやりとりしていたのは何だったのか。急に態度が変わったのは何が原因なのか。考えても答えがでないと分かっているが、考えずにいられない。
耀はベッドの上で体を起こした。西川は静かな寝息をたてている。耀はベッドから抜け出し、キッチンに置いたクリスタルの容器からコップに水を注いだ。水道水を直接飲むのは不味くてできない。この容器にしばらく溜め置くと飲めるようになる。体温より低い温度の水が、のどから胃のほうへ流れ落ちていくのが分かる。
やはり確認したい。同じ結果になったとしても、もう一度直接聞きたい。そして自分の気持ちを伝えたい。耀は水の容器に手を当てた。和佳の居場所が分かればいいのだが。携帯のメッセージは未読のままだった。昨日の仕事帰り和佳の家の近くまで行ったが、遠くからドアを見ただけで引き返してきてしまった。明かりはついていなかった。この人がストーカーです。その声が頭に響いて、家に人がいるか確認する勇気はなかった。
水の容器に手を当てたまま、耀はどこかにいる和佳を思った。容器の中の水がとぷんと揺れた。
コワイ。 コワイ。
それは声ではなかった。耀は西川を振り返ったが、西川は身動きもせずに寝息だけが聞こえる。もういちど意識を水に向けた。
コワイ。 タスケテ。
誰かがそうつぶやいている。声ではないが、気配だけがするような暗い映像が見える。暗くてよく見えない。そもそもその映像は、目の前にあるものではない。つかみ所のない感覚を意識だけで追いかける。あれは和佳じゃないだろうか。それとも和佳のことを考えすぎて、妄想が映像化しているだけだろうか。
耀は西川を起こさないようパーカーとコートに袖を通し、下はスウェットのまま外に出た。アパートから出ると、耀はまわりに意識を向けた。外にいるのにアパートの部屋の中に置いてある水の容器の形が薄い青色にぼんやりと光って見える。同じような青い光が、木の枝のようにアパートのシルエットの中に浮かび、根のように一、二本に集められて耀の足下の地下を通っている。アパート以外にもすべての建物から無数の青い光の筋が伸び、長い道を作って、道路に沿って進んでいる。水か。上水道と下水道の水が見えているのだろうか。光が比較的明るいスジと、暗くてあまりはっきりしないものもある。耀は光っているスジに意識を向けた。無数の支流が集まり、また分岐して、長く長く続いていく。
耀は歩き始めた。ぼんやりと光を放つ青いスジ、それも光がはっきりとしたものに意識を集中させた。上水道のようだった。あの暗い映像は水を伝って来ている。耀は遠くを見やったが、その映像の気配がどこにあるのか分からない。
耀は和佳の気配を捕まえようと、目を閉じて無意識に握った手を力を込めてパッと開いた。すると青い光が大きくゆらめき、揺れが遠くまで伝わる。
コワイ。
また伝わってきた。今度は方角だけは分かった。光が揺れると遠くまで見通せる。見通すというより、水の周辺の様子が映像となって伝わってくる。耀はもう一度手を開いて道に向けてかざした。
水を使って食器を洗う女性。風呂に湯をためている若い男。公園の池の側に座り込んで寝ている酔っぱらい。雑多なおびただしい数の映像を払いのけるように、耀は意識を先へ先へと走らせながら、気づくと自分も走り出していた。
シニタクナイ。
それは暗い部屋の中にうずくまっている和佳だった。この先だ。まだ遠い。はっきりとした場所が分からない。耀は時々止まってアスファルトに手をかざしたり、強く手の平を開く動きを繰り返した。方角を確認し、しばらく走るとまた止まって青い光を揺らす。自動販売機が背後でガコンと音を立てた。ゴンゴンといくつか缶が取り出し口に落ちてくると、一つの缶が飛び出して転がった。足を止めて振り返った耀は、そのジュースの缶を半信半疑で見つめた。片手を伸ばして、指先を缶に向けて振ってみる。缶はとぷんと揺れてコロコロと転がった。
「何これ」
水である必要はなさそうだ。どうやら自分は液体を動かせるらしい。
自分が揺らしているのは光だけではなく、水そのものなのだろうか。耀は、前に向き直りまた走り出した。
タスケテ。
映像が頭に浮かんだ。和佳がクローゼットのポールにタオルを結びつけて、タオルの輪に頭を通そうとしている。
「だめだっ! やめろ!」
耀が思わず手を伸ばして叫ぶと、周りでいくつもの破裂音が前後して響いた。耀が走り去った通りで、児童公園の手洗い場の蛇口から水が高く吹き上がった。路上の消火栓のマンホールが浮き上がり水が溢れ出した。マンションの屋上に設置された貯水槽が揺れて、固定してある鉄製の固定具を弾き飛ばして傾き、流れ出た水が屋上の柵を飛び越えて滝のように落ちた。
耀は自分の目の前に続く光の帯を何度も鞭打つように揺らし続けた。揺れる光の先に和佳がいるのが分かる。けれどまだはっきりとは位置が分からない。
すぐ行く! すぐに行くから待ってて!
耀は和佳のいる方角へ走り続けた。