【長編小説】ダウングレード #28
シェルターに来て一週間が過ぎた。
最初の二日間は、この施設のルールや分担する家事の確認、同居人たちへの簡単な紹介などで終わった。三日目の午後は、カウンセリングルームで白衣を着た女性と過ごした。いくつか質問をされたが、和佳は話すことができなかった。声が出なかったのだ。初日に病院で診察を受けた時もシェルターに来てからも、一方的に説明を受けることばかりだったので頷いていればよかった。だから質問されてようやく声が出ないと気づいた。自分の体がおかしくなってしまったのかと落ち着かない気分になったが、三井と名乗る白衣の女性は一時的なものでよくあることだと言って微笑んだ。
三井が説明を続けた。母親と一緒に暮らさないという選択肢もあることを告げられ、和佳はぽかんとした。
「あなたにはあなたの人生があり、それは自分で選べます。誰と一緒にすごし、誰と距離を取るかも自分で選ぶことができるんです」
和佳はうつむいてその言葉を反芻した。
「もちろんお母さんのことを大事に思っている気持ちはそのままでよいんですよ。時々会って話したり、手紙を書いたり、それは自由です。でもあなたがお母さんの生活を支えないといけないということはありません。お母さんは今、別のシェルターで生活しています。アルコールと薬物の依存症と診断されたので、まずはその治療から進めるプログラムが組まれています。お母さんは和佳さんに会いたいとおっしゃっていますが、今はお二人は別々に生活した方がお互いに良いと医師やケアワーカーのグループでは判断しています」
和佳は頷いた。
「和佳さんは、声がでないことを除いては、今は特に症状は出ていません。でもまずは規則正しい生活をして、自分の心と向き合ってみましょう。それから追い追いこれからのことを決めていけばいいですから。働きたければ就業支援も利用できます。和佳さんは高校へ行っていないそうだから、働きながら夜間高校へ通うということもできます」
働く。高校へ通う。どちらもぼんやりしていて、掴みどころがないと感じた。今の自分は何もない、ゼロの状態だ。
カウンセリングが三日間続いたが、和佳の声はやはり出ないままだったので、紙に文字を書いて三井の質問に答えた。文章にしようとすると、うまくできないこともあった。質問に答えようと考えると、心が揺れて波があふれそうになる。それを文章にはなかなかできない。写真が撮りたいと思った。けれどスマホはシェルター内では使用禁止で、管理事務室に預けている。
シェルターの職員に付き添われて、喉の検査のために病院に行ったが、声帯をはじめとする喉の器官自体は何も問題はないと言われた。その結果を聞いた三井は、焦らずゆっくり行きましょうと言った。
数日シェルターの食事の用意や清掃を手伝いながら過ごしていたが、声は戻らなかった。一人で部屋でいると、何だか部屋がとても暗く感じたり、音が聞こえづらかったりした。自分の体が少しずつ変になっているように感じて、不安で呼吸が苦しくなった。カウンセリングでそのことを文字で書くと、三井は「心配しなくても、和佳さんは健康で、何も問題はありませんよ」と言った。
次の日から、グループセッションに参加させてもらうことになった。参加と言っても和佳は話ができないので聞いているだけだったが、頷いたり首を横に振ったり、簡単な文章を紙に書いたりして意思表示した。グループセッションは週に三回行われている。五、六人の女性が円を描くように並べられた椅子に座り、順番にいろいろなことを話し、みんなでそれを聞くというものだった。その時その時でテーマが決められていたが、基本的に何を話してもよいし、話したくなければ話さなくてよいことになっていた。年齢も性格も生い立ちも違う女性たちだったが、和佳以外の参加者はすでに何度か参加しているらしく、互いに仲間意識のような親密感が感じられた。
アヤカちゃんと呼ばれている、和佳より少し年上に見える女性が、その日は最初に話を始めた。義理の父親に性的虐待と暴力を受けていたこと。母親に話しても助けてくれなかったこと。ずっと悩んでいたが、幼馴染でずっと好きだった男の子に打ち明けたら、なぜ拒否して逃げ出さなかったのかと逆に責められたこと。最初のうちは淡々とポツポツと話す感じだったのが、好きな男の子に理解してもらえなかった時の話になると、感情が抑えられなくなった様子で、アヤカは声を上げて泣き出した。隣に座っていた四十代くらいの女性が椅子を寄せて肩を抱き、背中をさすった。
たくさんの話。たくさんの苦痛。たくさんの悲しみ。和佳はグループセッションが終わると、酔ったようにふらつきながら部屋へ戻った。
話をした女性たち全員が、それぞれ壮絶な環境から逃げて来ていた。みんな大変なのだ。そしてみんな、ここで立ち直ろうとしている。
グループセッションに参加して、他の女性たちの話を聞くにつれ、学ぶことは多かった。自分だけでなく、たくさんの女性がそれぞれつらい思いをしながら生きている。一定期間をシェルターで過ごして、一人ずつ、ここから出ていく。新しい生活を自分で選んで。
シェルターでの生活が二週間になろうとしていた。和佳の声はあいかわらず出ないままだ。規則正しい食事と運動。家事労働や音楽療法。テレビやスマホ、インターネットは禁止されていたが、穏やかな時間が流れている。体は健康なはずなのに、和佳が感じる不調は次第にひどくなっていった。目がよく見えない。音も遠くで聴こえる。体が温まらない。それらはすべて和佳の感覚でしかないようだった。検査をしても問題ないと言われた。
グループセッションで、進行役の三井が話をしてみるかと和佳に尋ねた。頷いたものの、声は出ない。スケッチブックに文字を書いてみんなに見せるように提案されたが、書こうとしても一文字すら書けなかった。
「焦らなくていいから、また試してみましょう」
三井は微笑んだ。
グループセッション以外の普段の生活の中でも、急に不安になり叫んだりわめき出す入居者もいた。そんな時は職員や三井が駆け寄って穏やかな声でゆっくりと対応する。そんな光景を目にするたび和佳は不思議な気持ちになった。なぜあんな風に感情を表に出せるのだろう。自分はどうしてそれができないのだろう。文字にすらできない。胸の中で揺れている波を、あふれさせることができず必死で抑えようとしてしまう。感情を爆発させる母親。何がスイッチなのか分からないが急に激高する母の恋人。常識的な話の途中から急に暴力をふるい出す岡田。それを見ながら和佳は感情を殺すしかできない。ずっとそうやって過ごしてきた。
その日、和佳は朝から食欲がなく部屋で横になって過ごしていた。視界が暗く、耳も膜がかかったようによく聴こえない。部屋の中には作り付けのクローゼットがある。その扉に付けられている取っ手を眺めていて、ふと鴨居に下げられていたフックを思い出した。あの時。弟が鴨居からぶら下がっているのを見た時。あの時息を止めた。その後どうなったのか、よく覚えていない。思考は揺れて、いくつかの場面が目の前に現れては消えた。水の中に立っている。足が冷たくて靴の中に水が入って気持ちが悪い。あの日、和佳は逃げていた。捕まったら恐ろしい目に遭うと分かっていた。上着を着ていなかったので、寒さと恐怖で体が震えた。そんな時声が聴こえた気がした。大丈夫、助けに行くから。すぐに行くから待っていて。その声はゆらゆらと強くなったり、ふっと消えたりしながら、逃げる和佳の耳に何度も聴こえた。そして耀が現れた。姿を見たからそう思ったのかもしれないが、聴こえていたのは耀の声だと思った。助けに来てくれたのだと思った。お金を借り、言わされたとは言えストーカーだと警察に突き出した自分を。今までに数人、お金を借りた人がいた。お金の借りができると、体の関係を求められるか、疎遠になるか、どちらかだった。耀だけは、もしかしたら違うのかもしれないと思った。助けに来てくれて、この人を頼ってもいいのかもしれないとも思った。けれど相手の男は二人だ。勝ち目があるようには思えなかった。耀がケガをして、和佳は捕まる。最悪のシナリオが頭に浮かんだ。耀は二人の男に向かっていこうとした。けれど中途半端な姿勢のまま、急に動かなくなって倒れ込んだ。別の二人の男が現れて、一人は耀を支えもうひとりは二人の男たちと話をしていた。ぐったりした耀の顔は血の気がなく真っ白だった。和佳は目の前にだらんと下がっている耀の手を取った。わずかに感じられる暖かさがすっと消えていく。冷たい「物」のような皮膚の感触に、和佳は息を止めた。
気がつくと溝口という女性と一緒にタクシーに乗っていた。
「大丈夫よ。心配いらないから」
溝口という女性はそう言ったが、この人は本当のことを知らない、安心させようと嘘を言っていると思った。
その後、耀のことを思い出す余裕がなかった。あれからどうなったのだろう。もしかして……。その疑問を心の中でさえ言葉にするのが怖かった。
鴨居の前で弟を見た時、冷たい耀の手を取った時、その二つの場面が重なる。キュッと蛇口を捻って閉じる。感じることをいつものように止めたのだ。
このまま感情を止めたままではいられないのだと分かっていた。けれど、閉めた蛇口をどうやって開けばよいのか分からなかった。