【長編小説】ダウングレード #31
プレートを二つ抱えて店長がキッチンに戻ってきた。かなえはまだカウンター前に立ったままだ。
「かなえさん、コーヒー飲んでく? 俺たちまかない食うけど」
店長が洗い場にプレートを置いた。
「アゲちゃん、クローズの札出してよ」
耀はのろのろと反応しキッチンから出ると入り口のドアに向かった。
「安慶名くん、私ね……」
かなえが思い詰めたような顔で床を見つめている。
耀はまた何か説教されるのかと気が重かったが、立ち止まってかなえの次の言葉を待った。
目の前にぼんやり白い光があるのに気づき、目を上げると白い人の目鼻のない顔が自分を見下ろしていた。ぎょっとして身を固くした。白い人は少し後ろに下がって店の外へ誘うように頭を傾けている。ここに何か危険があるのかと不安になり耀は店内に目を走らせたが何もなさそうだ。白い人は今度ははっきりと手招きした。
誰かが危険なのか? と心でつぶやくと白い人は頷いたように見えた。両親の顔が浮かんだが白い人はじっと耀の顔を見つめている。違うのか。次の瞬間和佳の後ろ姿が頭に浮かんだ。
「まさか!」と思わず叫んでいた。
「安慶名くん?」
「シェルターは安全なんじゃないんですか?」
「どうしたの?」
白い人はもう店の前の道から誘うように見つめていて、耀は店のドアをはね飛ばすように開けて外へ出た。
和佳にまた危険が及んでいるということなのか? 耀は周りの水の位置を感じ、和佳の情報が探せないか試したが、雑多な無数の人の動きと会話が飛び込んでくるだけだった。前回のように水を揺らしてはいけない。耀は街の景色の中に目を走らせた。角に白い人が立っている。耀と目が合うとスイッと角を曲がった。耀はその後を追った。
白い人の後を追って耀は大通りから一本奥の通りに入り、あるビルの前に来た。白い人は耀が近づくとスイっと姿を消し、行く方向を探すと現れ誘導している。自分たちで守るのでは不足だから? 白い人が守っても確実に守りきれるものでないことは知っている。
そのビルはテナントばかりの古いビルでセキュリティロックもない。耀はエレベーターの遅さにイライラしながら最上階の八階に着くと、開くエレベーターのドアの隙間に右肩から突っ込むように外へ出た。
白い人は階段の踊り場に立っていてこちらを見ている。耀は階段を二段跳ばしで上がると屋上へ出るドアのノブに手をかけた。音を立てないように言われた気がして、息を止めてそっとドアを開けた。
コンクリート打ちの空間にエアコンの室外機がいくつも並んでいる。その横にステンレスパイプの物干し台が四つ置かれ黒いタオルが大量にゆるゆると風になびいている。屋上の空間はぐるりと高い柵で囲まれている。
耀は左右に視線を走らせたが、人の姿は見つけられない。
右手奥に視線をやると鉄製の門扉が開いたままになり、下へ向かって非常階段が伸びているのが見えた。その最初の踊場に誰かがいる。頭のてっぺんだけがわずかに見える。耀は急に自分の鼓動を感じた。階段に向かってゆっくり進むと、踊り場にいる人は手すりに両手をつき、片足を手すり下の鉄枠にかけている。和佳だった。あのまま鉄枠にかけた足に体重をかければ体は上に浮き上がり、手すりは腰より下になる。前のめりになればあっという間に落下するだろう。六体の白い人が和佳を守るように取り囲んでいる。そのうち一体は和佳を抱き締めるように包んでいるが和佳には当然見えていない。和佳の視線はまっすぐ前を見ているが、風になびく髪の毛の隙間から見える目は生気がなくぼんやりとしている。和佳の体がわずかに前に傾いだ。
「和佳ちゃん」
耀は大きな声で脅かさないよう少し抑えた声で呼びかけたが、声より自分の心臓の音の方が大きく感じた。数秒遅れて和佳が視線をこちらへ向けた。耀を見ると目だけを大きく見開いた。
「何してるの? 俺はさ、高いところから景色でも見ようかって思って。寒いけど、ほら、今日はまあまあの天気だし」
耀は芝居じみていると思いながらも明るい声を出して非常階段をゆっくり降りて和佳に近づいた。最後の段を降りようとしたところで和佳がわずかに耀から遠ざかる方に体を引いた。耀はぴたりと動きを止めた。かなえの話が頭をかすめた。耀を見たことで和佳の恐怖を再現することになれば逆効果ではないか。
「写真でも撮ってた?」と笑顔を作って尋ねる。
和佳は耀の顔をじっと見つめて何か考えているように視線をわずかに揺らしたが何も言わない。耀は声の調子をもっと穏やかにしようと努めたが心臓の鼓動がうるさくてできているのか自分で分からない。
「和佳ちゃんの写真、俺、すごく好きだから、また良い写真撮れたら見せてよ」
耀は階段を降り踊り場のスペースに両足をおろして、もう少し和佳に近寄ろうとした。
和佳はいやいやをする子供のように首を横に振った。耀は拒否された絶望感に肩が下がった。やはり自分ではダメなのだろうか。誰か他の人なら和佳を助けることができるのではないか。
和佳の周りの白い人たちが耀に向けて手を広げた。来いと言っているように見える。和佳から更にはっきりとした拒絶を示されたらと思うと躊躇した。心臓の音が耳元で響く。和佳が顔を上げ鉄の手すりの外に視線を動かした。耀は飛び込むように走り寄り和佳の体を抱き締めると、鉄柵を蹴って手すりを握り締めている和佳の手をむりやり引き剥がした。バランスを崩して、和佳を抱えたまま後ろ側にたたらを踏みビルの壁に背中を激突させて呻いた。一瞬息ができず、耀は和佳を抱えたままズルズルと壁につけた背中を落として座り込んだ。和佳が泣きそうな顔で振り向き離れようとする。耀は両腕に力を込めてなりふり構わず掻き抱いた。
「ごめん。ごめん。怖がらせてごめん。でも、どこにもいかないで欲しい。俺はもう次からは近寄らないから……」
和佳は頭を軽く振りながら身を捩り、耀の胸に手をついて離れようとした。逃げられてしまう、そう思うと耀も泣きたい気分になった。もう一度掻き抱くように和佳を抱き締めた。お願い。逃げないで。
自分の腕の中にある肉体の服越しの体温。耀は自分はもしかして初めて人の体に触れたのだろうかと思った。幼い時両親から抱きしめられた記憶はないに等しいほど遠い。
耀は和佳の髪を撫でながら「大丈夫」とか「きっとうまく行く」と声をかけたが、的外れな言葉をかけている気がして途方に暮れた。
和佳の胸の辺りがぼんやり光っているのに気づいた。よく見ると帯状の光がいくつも集まり、グルグルと巻きつけられ玉のようになっている。和佳の心が壊れないようこの光の帯が支えているみたいだと思った。和佳の周りには他にいくつも光の帯が漂い和佳に繋がろうとしているが、そこに膜があるように届いていない。耀の言葉が空回りしているように、光の帯も和佳の中へ入ることができないでいる。
白い人たちはあいかわらず耀と和佳を囲んで立ち続けている。どうしろって言うんだと心で問いかけても目鼻のない顔からは何も読み取れない。まるで白い人の方が耀の出方を待っているように感じる。
耀は和佳を包むように抱き締めて、手を背中に回した。和佳の体の中の血管や、リンパ管や内蔵に意識を向けた。喉が渇くような感覚が伝わってきた。前にも感じたことのある、和佳の孤独。もう一方の手で和佳の後頭部から首のラインをなぞる。胸の真ん中でズクリと痛みが起こった。途端、自分の体温が沸騰するかと思うほど急激に上昇した。
和佳の体の中の青い光の筋から発せられる振動が、耀の体の中に流れ込んでくる。その振動は泣きたいほど悲しい。耀は和佳を抱き締めている腕を更に自分に寄せた。和佳の振動に重なるように別の振動が次第に大きくなり、その波に頭から飲み込まれた。和佳とは違う、自分の体内の音と振動だった。鼓動や呼吸音に混じって血液が流れるサーッという音が大音量で響く。自分自身がはじけ飛びそうで思考が止まり、ただ身を任せるしかできない。耀は和佳の首筋に自分の額を押し付けた。和佳の体臭とシャンプーの匂いが脳内の隙間という隙間に浸食し、和佳の喉を噛み切ってすべてを飲み込みたい衝動に駆られた。
衝動を必死でやり過ごすと、音と振動は波が引くように収まっていった。耀は薄く目を開けた。和佳の周りに漂っている光の帯に手をかざした。光の帯の先に何人もの人がいるのを感じる。和佳の知り合いでもなくもちろん耀と関係のある人たちでさえない。この場所の近くにいる人もいれば、はるか遠くの外国で暮らしている人もいる。彼らのエネルギーが彼らの意識と関係なく、和佳の中心に延びて金色の球体に絡まっていく。耀は金色の麦の穂が揺れる景色を思い出しながらそれを見つめていた。
屋上側から人の足音が聞こえ耀はふっと我に還った。誰かに連絡しなくては。自分が意識を失えば、また和佳に怖い思いをさせてしまう。耀は片手でポケットからスマホを探って店長に連絡しようとした。スマホの画面から連絡先をモタモタと探していると、耀の手首に和佳が指で触れた。何かをなぞるように和佳が指を動かす。耀は自分の胸に頭をもたせかけている和佳の顔を見た。
その顔は美しかった。目はまだ涙で濡れているがもう泣いてはいなかった。頬がわずかに上気している。さっきまでの痛々しい気配はなく凪の海のようだ。この顔がすごく好きだと心で呟いた。
和佳が視線を上げて目が合った。背中から頭まで滾った熱が一気に上り詰めた。前歯がわずかに見える和佳の唇に顔を近づける。
こうやって好きな人を抱き締めるのはなんて幸福なことだろう。強烈な感情に肌が粟立つ。
「ずっと一緒にいたい。こうしていたい」
耀は和佳の唇に口づけた。その唇の柔らかさに脳の中が痺れた。唇を離し和佳の顔を覗き込んだ。和佳も耀の目を見返している。耀がもう一度口づけようとした時声がした。
「そこで何してるの? 大丈夫?」
屋上へ続く鉄の門扉の枠の中に、大量のタオルを突っ込んだカゴを抱えた男が眉間にシワを寄せてこちらを見下ろしていた。