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【長編小説】ダウングレード #23

「かなえさん、そんな大声でなくても聞こえるからもっと落ち着いて下さい」
 西川は助手席でスマホを耳から離して叫んでいる。スピーカーにしているのかと思うほど、通話相手の溝口かなえの声は大きい。
「何? ごめんなさい。ものすごい数の声が一斉にしゃべってて、よく聞こえないのよ。とにかく安慶名耀を止めろってみんな叫んでるの」
「安慶名くんがどこにいるか分かるか聞いて」
 菅原がウインカーを出して右車線に入りながら言った。
「かなえさん! 安慶名くんがどの辺にいるって声たちは言ってますか?」
「微妙に違うこと言ってるけど北区だっていうのは共通してる」
 西川が菅原を横目で見た。
「分かりました。菅原さんと今向かってますから、また何かあれば教えて下さい」
 西川は電話を切った。
「北区のどの辺か特定できるか?」
「まだはっきりとは。もう少し近づけばある程度はできると思います」
 交差点を右折して進むと、道路が水で濡れている。雨でも降ったようにも見えるが、そのまま進むと更に道路上の水の量が増え、消火栓のマンホールから水がわき出ているのが見えた。コンビニでは店員が飲み物の冷蔵庫のガラスドアの前で作業している。ドアを開け放って水をかき出している飲食店の従業員や、外の様子をベランダから見ている人もいる。
「これ、地震じゃないですよね?」
「速報は出てないから違うだろうね」
「安慶名くんがやったって事ですか?」
「確定はできないけど、可能性はあるね。彼は水との親和性が高いのかもしれない。水族館でちょっと不思議なことも起こったし」
 菅原から電話があったのは午前一時すぎだった。スマホの振動で目を覚まし、部屋を見回した時には耀の姿はなかった。菅原の用件は、溝口かなえからの連絡で耀の所在を確認したいというものだった。西川が耀の家を飛び出して菅原と合流したのは、それから十五分後だった。
 溝口かなえが声を聴くのはいつもの事だが、真夜中に眠れないほどの数の声が彼女に訴えかけるのはそうあることではないらしかった。菅原の動きが速かったことから、ただ事ではないと西川も感じた。何年も前にやはり同じようにかなえが知らせたことで、被害を最小に留めることができたという話を安田から聞いたことがあった。最小被害とは言え、その時は死亡者一名を出した。対応が遅ければ、もっと被害が出る可能性があったということだろう。それならば、今回も同様に人の生死に関わる可能性があるということだろうか。
「北区に入った。安慶名くんはどの辺か分かる?」
「まだ遠いですね。もう少し近づかないとはっきりとは」
 高架道路の下を通り抜けようとしたが、道が谷状になっていて池のように水が溜まっている。菅原はUターンして迂回した。あちこちで消火栓から水が吹き出し、コンビニの店内は飲料の瓶や缶が散乱し、トイレの蛇口から吹き出た水が床に溜まっているらしく、開け放ったドアから水が流れ出ている。外からは見えないが、それぞれの家の中でも水の被害が出ていることは想像できた。溝口かなえに訴えた声たちは水を止めるよう騒ぎ立てたので、溝口が市の水道局にすでに通報しているはずだ。
「まずいな。これは災害対策室が設置されるレベルかもしれない」
「それって、安慶名くんヤバいって事ですか?」
 菅原は返事をしない。西川は菅原の横顔を見たが、すぐに耀の居場所の特定に集中した。
 菅原がサイドミラーを二度見した。
「たぶんこっちだな」
 菅原は左折した。
「何か分かったんですか?」
「きらきらしたデカい魚がこの車を先導してる」
「魚?」
「前に見たことがある。水族館で安慶名くんが倒れた時に彼のそばにいた」
「俺には見えませんけど」
「私が運転しているから私に教えてるんだ。急げという意味だろうね」
 菅原はアクセルを踏み込んだ。

          * * *

 いざ死のうと思っても、そう簡単ではなかった。和佳がいる部屋に置かれているものでは用をなさなかった。厚手のフェイスタオルでは長さが足らずしっかりと結べない。ドライヤーは洗面所の壁に固定されていてコードをとりはずすこともできない。シェーバーやハサミなどの刃物類もない。閉じこめられた者が考えつきそうな自殺の方法をすべて排除しているような部屋だった。
 時間だけが過ぎていく。置いてあるペットボトルの水を飲み、トイレに行く。和佳は、自分の意志と無関係に維持される呼吸や脈拍を思った。
 小さい頃から怖い場面は何度もあった。怒鳴られ脅されたり、暴力を振るわれたり、食べ物のない部屋に長い間閉じこめられたこともある。いつも助けてと願ったが、助けは来なかった。ただ耐え待っていれば状況が過ぎ去るだけだ。みな誰でも自分のことで精一杯なのだ。誰もわざわざ助けてはくれない。そして今回も同じなのだと和佳は思った。ただ、今回は耐えて待っても無事に過ぎ去ることはないだろう。男たちが声を潜めて話していた言葉が蘇る。和佳は両膝に両手の平を当てて、前後に擦るように動かした。なぜそうするのか分からなかったが、無意識に体を温めようとしたのかもしれなかった。
 夜の九時過ぎになった。今夜の夕食はないらしい。空腹を感じたので、また水を飲んだ。
 足音が近づいてドアが開き、年上の方の男が入ってきた。部屋の中をざっと見回し、特に変化がないことを確かめると、軽く手招きするようなしぐさをした。
「行くぞ。仕事の時間だ」
 和佳が立ち上がった時、マンション全体にゴオンと金属がぶつかるような音が響いた。男は天井を見上げ耳をすませたが、それ以降何も動きがないのを見ると、再び和佳に手招きして出るように促した。
 男に急かされるようにマンションの玄関から出ると、ドア前の通路から見える夜の景色にぼたぼたと水が滴っている。男はチッと舌打ちした。エレベーターで一階まで降り、マンション前の道で立ち止まると、左右を見回してまた舌打ちした。雨は降っていないのに、マンションの屋上からボタボタと水が落ち続けている。男がイライラとスマホを取り出した時に、角をまがって車が一台近づいてきた。運転しているのは若い方の男だった。
「五分前には待っておけって言っただろ」
「何か街の中すげえことになってて、まっすぐ来れなかったんスよ」
 何かに金属が当たるような、カンという音が響いた。マンション前の道から大きな通りに出たところに、水の柱が吹き上がっている。水はゆるゆると流れてこちらに向かって来た。
「うわ。マジか」
 和佳の横にいた年上の男が、水柱を呆然と見つめている。その時、服の襟をクイと引かれたような気がして、和佳ははっとした。車に乗ったらもう逃げられない。今しかない。和佳は水柱の吹き上がる大通りとは反対方向に向かって駆けだした。おいお前っ、と男の声がしたが、和佳は全力で走り次の角で右に折れた。すぐ後ろを走ってくる足音を聞きながら、和佳は右に左にデタラメに角を曲がりながら走り続けた。いくつ目かの角を曲がって、ふと服の裾をひっぱられたような気がしてその方向を見るとビルとビルの隙間がある。呼ばれるようにその隙間に飛び込んだ。狭い隙間を進むとまた裾を引かれた気がして視線を移すと、ビルの非常口らしいドアがあり人が一人立てるくらいのくぼみになっている。和佳はそのくぼみに飛び込んで息を殺した。後を追ってきた男の足音が響いて、止まった。もう一つの足音が聞こえる。
「兄貴」
「車は?」
「水の量がヤバいんで高台に停めてきました。女は?」
「遠くには行ってないはずだ。時間に遅れたら俺たちが殺されるぞ」
「勘弁して下さいよ」
 二人が走る足音が遠ざかった。
 和佳は心臓の音で見つかるのではないかと両手を胸に押し当てるようにして、しばらくじっとしていた。このままここにいれば大丈夫だろうか? あのマンションからそう離れていないから、できればもっと遠くへ逃げた方がいい。でも今ここを出れば、あの二人に見つかるのではないか。自分の呼吸音だけが聞こえる。ふと足下が冷たいことに気が付いて下を見た。まっくらで見えないが、少しかがんで見てみると、背にしているドアの下から水があふれて流れ出ている。水は音も立てずにゆっくりと和佳が走ってきた道の方向へ流れていく。靴の中に水が入った。和佳はその場から一歩前に出た。入ってきた方と逆方向へ行こうとすると、背中側へ服の裾を引かれた気がした。自分の直感なのかは分からなかったが、さっきはそれに従って追っ手から逃れられた。和佳は向きを変えて裾を引かれた方へ歩き出した。



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