あきらめる、って意味がある?!
こんにちは。
このブログにお越しいただきありがとうございます!
最近、自分の過去を振り返っていろいろ考えることがあります。私はピアノを16年間も習っていたのに、結局ピアノ意味がなかったな、とか英語は中学から学習を始めて、好きだったし、英語の専門学校まで行って学んでまあまあしゃべれるようになったけれど、そこで終わってしまったなとか。
それで思うのが「あきらめる」ということ。
これは?いい事?悪い事?
まあ、善悪の定規で測るものでもないのですが、私は自分にとって「あきらめること」=「悪い事」だと思っていました。
だってね、あきらめたら、あきらめる気持ちって、お友達を呼んでくるんですよね。
「自己否定」の気持ちとか
「自虐的」な気持ちとか
「不幸」な気持ちとか
なんだかご丁寧に「ネガティブ」で「否定的」で「不幸」になるような気持ちをどんどん連れてきて、知らないうちに囚われてしまう💦
そんな風に思ってました。
それなら、「あきらめたこと」を諦めてしまえ!
と思ったんですね~♪
で、やっていることというのが、
1ピアノをまた練習する
2今までと違う練習をする
3それを誰かに伝える
4下手でも誰かに聞いてもらう
5嫌になったらやめる
6でもやりたくなったらまたやる
そんな風に、なんというか、「白か黒か!」「0か1か?」みたいなはっきりさせたいのではなくて、「ピアノを弾いていて幸せ~♪」という気持ちを常に感じるようにしていたい、というワクワク感を大事にしたいと思うようになりました。
ちなみに、noteではあまり英語のことはお知らせしていませんが、以前18歳~20歳に通った英語の専門学校で英語を学び、秘書業務を学んだ時に、学長先生が同時通訳者だったのですが、「私には同時通訳者は無理」と思ってしまいました。
「無理無理無理無理~」
そう思うと、本当にそれ以上進めなくて、翻訳業務はやったことがあります。でも、通訳はほぼやったことがなく、同時通訳なんてできる気持ちがしませんでした。
でも、「あきらめること」を諦めよう!と思ったら、なんと、同時通訳者の方にアドバイスをもらったりするようになりました。以前、本で同時通訳の勉強方法を読んだことがありますが、その方法では全然できるようにならなくて、その同時通訳者の人によくよく聞いてみました。
それで面白いことに気づきました。その同時通訳者の人も、私が読んだ本と同じことをしていたのですが、私が読んだ時にその方法を試したのはたったの一日のうち一時間。でもその同時通訳者の人は、なんと一日16時間くらいその方法をしていたそうです。
なんだ、私ができなかったのは、時間が足りなかっただけか?!
そこに気づいてから、勉強方法を変えました。これが私の「英語を諦めること」をあきらめた最初の一歩だったかもしれません。
一度なにかを「あきらめる」とその時は楽だったりします。でも、最終的に、自己嫌悪感だったり、自己否定だったり、「あきらめる」気持ちはお友達を連れてきてがっちり「アキラメ~」させるんですねぇ。
でも、その時は、「あきらめる」ことが必要だったんだと思い直すようにしています。「あきらめる」ことで一旦その道を回避して、結局遠回りにみえても、人生の道の中では、つじつまが通っていたりすることがあると最近思うようになりました。
だから、「あきらめて」いいと思います。でも「あきらめた」ことで苦しい思いやそのことが原因で先に進めないことがあるとわかった時には、「あきらめる」ことを「あきらめて」みませんか?