受験勉強は役に立つか?に対する暫定解
大学を出て、「学歴」や「偏差値」とは関わりの薄い場所に身を置いて、2年ちょっとが経過しました。
幼稚園や保育園を出て小学校に入学すると、「テスト」による「学力」の数値化が始まり、全国の子どもたちがほぼ強制的に参加させられる競争が幕を開けます。
このように6歳から始まる「点数」や「偏差値」によって優劣を決める思想は、子どもたちの間でもっともポピュラーな価値尺度であり、もっとも浸透度の高い一種の宗教ともいえるでしょう。
そのイデオロギーの中で、テストの結果を分析して課題を洗い出し、適切な対策を打つことで成績を伸ばしていくことに成功した人が、「学歴」や「偏差値」を獲得します。
中にはそうでない人もいるでしょうが、ぼくが大学で出会った人たちから判断すると、勉強自体が大好きという理由で偏差値を上げていったわけではなさそうでした。(相対的に嫌いな度合いが低い、というのはありそうですが)
したがって、ある意味「偏差値」という思想を信仰し続けられた人が「学歴」を手に入れている、という感じがします。
しかし一方で、「学歴は社会で役立たない」という話も耳にすることがあります。
自分の実体験としても「学歴」とは無縁の場所に来てみて、すごく深い考察をする人や独特の感性をもつ人とたくさん出会い、すごいなと思うことが非常に多いです。
これはなるべく速く正確に与えられた課題を処理して競争を勝ち抜く勉強と、制限時間を取り払った深い思考や枠を根本から覆すような発想、あるいはそもそも競争のない分野で戦うことなども必要になる社会の違い、がひとつの理由かなと思っています。
そういった競技性の違いを考慮すれば、社会に出てから輝く人はそもそも「学歴」という宗教を盲信的に信仰したりしない、といえるかもしれません。
このように考えると「学歴」や「偏差値」は必要ないかのように感じるかもしれませんが、実際にはこの理屈はあらゆる物事に応用できます。
社会に出て活躍することも、野球がうまくなることも、どれもひとつの価値尺度において優れているにすぎません。
なので、「学歴」に限らず何にしてもひとつの尺度にすぎなくて、ほかにもいろんな価値観があるし、その能力が別の場所でも活かせるとは限らない、という態度は必要かと思います。
一方で同時に、自分なりに信じられる価値尺度を持って、思い描く理想像に対して努力することは非常に尊いことだと思います。
それが勉強だろうとどんな分野であろうと、すべては特定の価値観にすぎない。けれど万能な価値尺度なんてないからこそ、自分が偏愛する分野を極めることは素晴らしい。
いまはそんなふうに思っています!