トリソミーという命
松永正訓医師の「運命の子 トリソミー」を読み終わったところだ。いま、静かだが確かな感動が胸に留まっている。
トリソミーが染色体異常のことで「トリ」という言葉が示すように通常二本一対であるはずの遺伝子が三本になってしまう症例だということは前知識で知っていた。この疾患でいちばん身近で有名なものはダウン症だろう。
自分や家族や、自分の子どもがダウン症だったら、大変だな。
今までそんな風に思っていたし、ということは心のどこかで「私はダウン症じゃなくて、よかった」とか「自分の子がダウン症だったら困るな」という残酷な気持ちがあることには自分でも気づいていた。
この本に書かれているのは、ダウン症よりさらに厳しい遺伝子疾患。小児科の松永医師が出会った朝陽君は13トリソミー。生まれながらに体のあちこちに重篤な奇形を持ち、ぱっと見ただけでも片耳が未発達で、口唇口蓋裂があり、ものを飲み込むこともできない。多指症のため指が六本ある。脳形成不全で見ることも聴くことも声を出すこともできない。そしてこの子は短命だと生まれたとき、いや生まれる前から運命づけられているのだ……。
こういった新生児に対して医療は「積極的に治療はしない」という方針のようだ。長くない命(人によっては生まれてすぐにも亡くなってしまう)なのだから苦しい治療や入院をしても、本人や家族のためにならないということらしい。そういう現実の中で松永医師は朝陽君の主治医になり、両親とお兄ちゃん、祖父母に寄り添うように「話を聴く」。
医師というのは大変忙しい仕事だ。そんな中で時間をかけて家族の一人ひとりと向き合い傾聴するのは、並大抵のことではなかっただろうし、私から見ても医師の仕事の範疇を越えた態度だと思える。松永医師の優しいまなざしを、すべての医師・医療機関に望むのは無謀だとも。
松永医師にはこの家族と歩むだけの動機があったのだろう。それは開業前医学部付属病院で「赤ちゃんの命を見放した」経験からくるかもしれないし、もっと根本的な「命とはなんだろう」とか「医師としてよりも当事者として病気を見つめたい」という思いなのかもしれない。
この本は第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞した作品ではあるが、漂う空気は決して「これは本になるぞ!」とか「賞を獲りたい!」などというギラギラした欲望ではなく、もっと静謐な「思索」であるように思う。ノンフィクション作品というのはその性質上、やはり「取材」が必要不可欠であって、情熱とコネとカネを注ぎ込んで対象に近づき、時間をかけてその中に真実をつかみ取るものなのだと思う。だがこの本はきっと順序が逆なのだ。朝陽君という「もの言えぬ命」に出会い、彼と彼を取り巻く人の「声を聴き」、それを世に伝えることにしたのだと思う。
朝陽君がいくつまで生きられるかは、医師にだって分からない。生きていても朝陽君が何かを語れる日は来ない。少しずつ手足を動かして意思表示のようなことをするようになる様子は描かれるが、それだって奇跡的なことのように感じる。朝陽君の脳はお父さんやお母さんやお兄ちゃんと同じようには育っていかれないのだ。そんな中でも、朝陽君が「生きている」事実は、確かにそこにあった。
朝陽君は心臓や口唇の手術はしなかった。人工呼吸器もつけないと決めている。だが、最低限必要な痰の吸引や酸素供給、肺炎治療や各種予防接種は受けている。無理に長く生きさせようとは思わない、だけどできるだけのことはしてあげよう。可能な限り在宅で朝陽君と暮らすのは「ふつう」の生活ではないかもしれないが、それを「当たり前」に受け入れている家族の姿には確実に愛情を感じた。これが「命を育む」ということなのか……。
この国には五体満足に生まれても愛情を受けられない子どももいる。だが生まれつき短命で言葉を話すことができないと分かっていても、確かに愛情に包まれて生きる子どももいるのだ。障害の有無にどれほどの意味があるだろう。
すべての障害児が家族に温かく受け入れられることはないにせよ、そういう家族が確かにいるのだというその事実が、じんわりと私を内側から揺さぶった。
私もきっと、出生前診断はしないのだろうと思う。それ以前に自分の子どもを持つことがあれば、の話だけど。
この本を読んで、よかった。