虎が猫に変わるとき
父親の思い出を語ろう。弔辞ではないが、それに近いものだ。私はこれでも父親を愛していた……らしい。だがもう二度と愛せないだろう。もうしばらく存命の筈の父親への思慕を棺に入れて、私は彼を超えてゆくのだ。
昭和末期の核家族にありがちなように私の父親も家庭不在、仕事で多忙の職業人であった。この際だから明言してかまわないと思うが、あの人は教師だった。
あの家で暮らした二十余年、たった二つだけ今も懐かしく嬉しかった思い出がある。大学卒業まで実家にいてなぜ二つしかよい思い出がないのかと言われても返答に困る。ありていに言って、私の家は地獄であった。地獄の中にも二つくらいは楽しい思い出があったというだけのことだ。それ以上でも、以下でもあるまい。
その思い出というのが、あの人がまだ若かった頃。おそらく教員生活数年以内だったろう、私の家にあの人の教え子が、現役の高校生がわざわざ遊びに来てくれたのだ。
父の勤め先はたいへんな進学校で、県でも五本の指に入る私立の男子校であった。そこの生徒ともなればいずれ劣らぬ秀才ぞろい、しかも休みの日にわざわざ教師の家を訪ねるような高校生……礼儀正しい優等生に決まっている。私はそもそも教師の家に遊びに行きたいと思ったことすらないし、招待されたことも一度もない。
今でも覚えている。池畑さん、森田さん、中本さん。いちばん美形だったのは森田さんで、私は彼の隣に陣取って煮えた鍋を取り分けてもらった。物心ついたばかりの幼女にもホストクラブの楽しさは分かるということだ。いちばんやさしかったのは池畑さんで、この人は後に私が中学受験で県下一番の女子校に合格したとき、わざわざ私宛に電話をくださった。「よく頑張りましたね」と言われて「はい、そうですね」と答えたらふてぶてしいガキになったと笑っておられた。この人はその後さらに数年して、なんと教師になられた。きっとよい先生なのだろうと思う。中本さんは面白い人だった。この人は後にテレビ局に勤めて、一度だけ画面の隅に映っているのを観たことがある。悪乗りしたお笑いタレントに女装させられていたが……今もまだ在職ならば、きっと上層部でたんまり稼いでおられるだろう。
あの日は本当に楽しかった。父も母も笑っていて、品のいい高校生のお兄さんたちは子どもの扱いになんか慣れないだろうに「先生の娘さん」と言って何かとかまってくださり、父を「先生、先生」と呼んでキラキラとした若い視線を送っていた。これだけ感じのいいお兄さんたちが慕ってくださるのだから、私の父はさぞや立派な人物なのだろうと、本当に誇らしかった。あの日の父はまだ若く中肉中背よりはやや細身で銀縁の眼鏡をかけて、それにまだ全くハゲてもいなかったのだ。
その父が先日、私のまだ0歳の息子の生命を脅かすような行為をした。
そのこと自体は敢えて語らないが、刃物が直接というようなことではなく、たとえて言えば卵アレルギーの子にプリンを食べさせたような話だ。この事件についてはいずれ別の場所で語ろうと思う。当然、父に殺意なんかなかった。だが悪いことにプリンを息子の口へ運んだのが、私と険悪なあの母親の手だったものだから、私は本気で母親が息子に害をなそうとしたと思いこんでしまったのだ。
「なんてことをしてくれたんですか! どうしてここまで酷いことができるのか、理解に苦しみます」
怒りに満ちた私のメールに母は謝りもしなかったが弁解もしなかった。抗議の文面を父親宛てに、母親はCCにして送信した。「息子が病院送りになったのだから、責任を取ってほしい。入院の手当てで私が仕事を休んだ二日分の日当を支払え。さもなければ、もう二度と息子に近寄らないでほしい」と。
実はこれは本意ではなかった。私は謝罪と反省を促したかったのだ。今回は軽症で済んだが、次は生命に関わらないとも限らない。アナフィラキシーの恐ろしさを知らない老人たち(私も幼少期は卵アレルギーだったそうだが、母親が「毎日食わせて鍛えたら、治った」そうだ。重症だったら私はとうにお陀仏していたところだ)にお灸を据えねばならない。
ところが、この返答が酷かったのだ。「そもそもお前は本物の私たちの娘か? 証拠に写真を送ってみろ。孫が入院したというが、何か別の病気だろう。それをたまたまプリンを一口食べさせたからといって難癖をつけて私たちを強請る気じゃないのか。本当にプリンごときで人が死ぬなら、医師の診断書でも出してみろ!」母親からは何も返信はなかった。
私の息子が卵アレルギーだということは、何度も電話で父親に伝えていたのだ。そしてこの文面。居直っているだけでなく、「こんなことくらいで文句を言って来るような女は俺のかわいい娘ちゃんじゃない! そんな女なら要らない」という意識が透けてみえた。
私の父親は、四十にもなる自分の娘を、なんでもいうことを聞いて自分のことを尊敬しているかわいいお人形としか、思っていなかったのだ!
それに私は気がついた。「私たち」。これだけ自分の責任を他へなすり付けてくる文面で「母さんが、やらかした」とは一言も言っていないしそうも読めなかった。
仲が悪いあまりに母親の方を疑ったけれども、そうではないのだ。父親がアレルギーという私たちにとっては大事な情報を「すっかり忘れ」母親には伝達されていなかったのだろう。今回に関しては母親は無実だった。ただ孫を喜ばせたくて、おいしいプリンを一口あげたら病院送りになってしまって、驚いているただのかわいそうなお祖母ちゃんでしかなかった。さすがに不仲の娘が産んだ子とはいえ、0歳の息子に害をなすほどの人間ではなかったのだろう(と、私は思いたい)。
だが、問題は父親だ。ボケているのか何なのか知らないが、アナフィラキシーを甘くみているのは今後気を付けられるなら百歩譲ってもいい。私をナメていることは許しがたいが、親だからある程度は仕方ない。しかし、許せないのは、過失に謝罪がないことなのだ。
若い頃の父はこう言っていた。「いいか、まあお。たとえわざとやったことでなくとも、相手に損害を与えたら、相手を怒らせてしまったら、先に一度しっかり謝りなさい。それから理由を述べて、今後どうしたら同じことが起こらないか話し合えばいい。アメリカ人ならこんな時、訴訟に負けると思って絶対に謝らない。だけど、まあおは日本人だ。日本という国は聖徳太子の昔から和を以て貴しとなしてきたんだ。どうだ、分かるかい?」「もし、謝っても許してくれなかったら?」「それはもうその人の問題だから、気にしなくていい。でも相手が許すかどうかより大切なのは、やってしまったことを謝ることだよ。まあおには、きちんと謝れる人になってほしいな。ちゃんとした相手なら、怒りが静まったら必ずまあおの話も聞いてくれるもんだよ」
この立派な父は、どこへ行ってしまったというのだ!
今回の件だって、大事には至らなかったのだから一言「ごめん卵アレルギーのこと忘れてた。母さんは、悪くないんだ」と言ってくれればいいものを(それだってしばらく私は「こんな大事なこと忘れてんのか、このボケ老人が!」くらいは言うだろうが)、私が母親を疑っているのを幸いと(?)自分の過失を覆い隠すように言い訳を重ね、さらには「こんなことで文句言って来るような娘はうちの子じゃない」とまで(言ってはないが、私にはそう読めた)。これじゃ母にだって不誠実ではないのか。あんな女でも四十年連れ添った伴侶に対して、この態度はいかがなものか。
本来、ここまでこじれる話ではなかった。他人から見たらお笑い種だろう。私が過剰に反応しているのも分かっている。だがそれだって、元はと言えば物心ついてから約二十年、チクチクチクチクと母親にいびられ続けて私が母親に対して警戒に警戒を重ねている結果なのだ。詳細は省くが、彼女が私にした仕打ちについてプロに相談したところ「ぜひうちの自助グループに来てください。あなたにはプログラムが必要だと思いますよ」と虐待被害者の会に誘われているくらいなのだ。父親には虐待のことを何度も告発しようとした。その都度、話を逸らし、気のせいじゃないかと言い、さらには「お母さんの悪口なら友達同士で言い合いなさい」とまで言ったあの父親。
そうだ、この父親は、見て見ぬふりをして娘への虐待を容認した、加害者だったじゃないか。昔からずっと「そういう、やつ」。実にお似合いの夫婦なのだ。
本当は息子とこの人たちを会わせる気などなかった。それが、私の方でも0歳児を抱えて離婚ということになり、どうしても実家を頼らざるを得ず短期間だけならなんとかなるだろう、と思って預け先が見つかるまでの間、それもごくごく短時間だけやむを得ず息子を見てもらっていた、その二回目の出来事だった。金銭的に仕方なくとは言え実家を信じてしまったこと、今は後悔している。もう二度と、あの人たちに息子は会わさない(少なくとも息子が自分の意思で祖父母に会いたいと言わない限りは)。
私は長いこと誤解していた。父のことも母のことも、虎のように思っていた。一人は凛として気高い王者として。もう一人は残酷な牙をむく肉食獣として。だがそんなものは幻想にすぎない。今の私には彼らが老いたる猫に見える。牙も爪も丸くなって太り、毛もところどころハゲたみすぼらしい猫。この老猫たちが、今後私や息子の役に立つとも思われないから、傷は猫同士でなめ合っていてほしい。私はもう、猫屋敷を訪問しないのだ。
ただ一つ、私の息子が誰からもお年玉を貰えないということについては、責任を感じている。
だが息子よ、分かってほしい。あなたが成長する上で大切なのは、お年玉よりも「手本にならない人間を近づけないこと」だと母は思うの。人間、貧乏では死にません。お年玉なら毎年私があげます。そうだなあ……年齢に100を掛けたくらいの金額なら、なんとか。
虎のように威張りくさった老猫よ。今回の仕打ちを池畑さんが知ったら、さぞや残念に思われるでしょうね。それ以上に私は落胆しています。幻想の虎にさよならを。これからは寅年生まれの息子と二人、慎ましく生きようと思います。
※この記事の画像はshiori44yso様より拝借いたしました。ありがとうございました。