黄砂で霞む夕日を浴びながら
職場は家からみて東の方にある。
だから毎日、私は朝日に向かって車を走らせ、
仕事が終わると夕陽に向かって帰る。
冬場は職場を出るのが日没後の事がほとんどだったが、最近は以前に比べ居心地がよくないし、わくわくする事もないから、また気が向くまで、あまり余分なエネルギーを使わず、必要最小限で取り組む努力をしている。
みなと同じでいるよう求める圧力は、
一様に我慢せねばならないような状況で特に強くなる。抑圧された環境で、決まっていじめが起こるように。
こんな時こそ、自分の心が潰れないように、自分自身をしっかりと抱きしめてあげなくてはいけないと思う。
黄砂で霞む夕陽を浴び高台を走る。眩しくてバイザーを下ろす。
信号待ち、歩道に落ち着きのない黒い犬の散歩をする夫婦、
買い物袋を両手に持った仕事帰りの女性、
キックボードで走り去る白いTシャツの少年。
少しずつ自粛ムードが溶けてきたようだ。単にそうみえるだけなのかもしれないけれど。
「自粛」という言葉の不気味さを、最近特に感じる。「自粛」は、我慢するだけでなく、人の有り様までをも求める言葉だと知った。
この言葉によって、もともとデフォルトとしてあった日本人特有の何かが、むくむくと蘇るのはなぜだろう。それは太古の昔から私たちが脈々と受け継いだものだと直感的には分かるのだけど。
人は結局、時代を経ても、科学技術が進歩しようとも、そのベースは変わらないし、そもそも私たち一人一人は何世紀もの人類の連続性の一経過でしかない。
そうして、私も含め当人たちは「自粛」の持つ魔力に気づかないまま、雰囲気そのものに、いとも容易く呑まれていく。
「自粛」という言葉には、知らない間に空気を察して外れた事をするなといった強い暗示の力がある。
私たちは空気を読んで語尾を微調整する。
間違いを避けるように話せば話す程、
社会から自由がなくなってゆく。
そして、私は浜に打ちあげられてしまったイルカのように、息が苦しくなる。
察することは、相手を思いやる優しさに繋がる。温かく慎ましい美徳。
でも、目では見えない相手の気持ちを察することを社会全体に対しやりだすと、みんなで自身の首をしめる制限を選んでしまう。
いざ、その真っ黒く渦巻く流れにのまれたら、右も左も無くなってしまう。
溺れないように、ハンドルをしっかりと握る。
信号が青になった。
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