例え話

大多数の語る「自分」というものが何かがずっと気になっている。

想像の中でそれはこれまでの人生という川を流れ着いた先にある海を形容しているんだろう。
あるいは海から蒸発して空に上がった雲や、降り注ぐ雨を自分と形容する人もいるのかもしれない。

例えば、その始まりで湧き出る源泉も、流れ早く岩にぶつかり反発する上流も、激しく流れ落ち濁流となる滝も、全てを飲み込む程深く沈み込む滝本も、穏やかに流れ多くの命に触れる下流も、その全ての過程を人生としているんだろう。

僕から見た「自分」は「海」ではなく「水」そのもので、永遠に流れては蒸発して雨になって、地面に染み渡っては源泉に辿り着き川を降り海に戻る。

流れ辿り着いた先が自分ではなく、流れ続けていることが自分だと思っている。

だから誰かは源泉のように常に始まりに希望を持ち、誰かは上流のように常に強く先へ進み、誰かは滝のように常に激しい変化を促し、誰かは滝本のように常に思慮深く見守り、誰かは下流のように常に穏やかに景色を眺める。
だけど全ては水のようにそれ自体は色を持たず、形を持たず、あくまで何かと合わさることで色を映し、形を保つ。

環境があってはじめて成立する形。
その形を一箇所に留めなかった。
流れながら見えた景色全てが好きだったから、行き着く先を決めずに、流れ続けることを選んだ。

そうして反復することで何度でも同じ場所から、移りゆく景色を見られる形を選んだ。

少しずつ流れる水の質を変えながら、それでも同じ循環を繰り返し、その全てを「自分」として体感することを選んだ。

見える景色は異なっても、同じ場所を流れることは出来なくても、巡る全て一つも手放さないと選んだ。

だから海にも雲にも雨にも川にすらなれない。
そのどれもに美しさを感じても、価値を感じても、僕らは何でもない水にしかなれない。

それでも僕からすれば何一つ誤魔化さずに、ありのままを語る答えじゃないかと思う。

そして本来は全ての人が水でしかないんじゃないかと思う。

自覚するにはあまりにも曖昧で、不安定なものだから、わざわざ選ばないだけなんじゃないかと思う。

人はいつだって目に見えるものが好きだから。
誰もが理解できるものが好きだから。

本当は水ですらないのかも知れないし、海も雲も雨も川もそのどれもに本来形も名前もないのかも知れない。

あくまで人の目に映る範囲の固定化されたものを言葉で形にしているだけ。

それはきっと命も同じで、心に形がないから、肉体としての名前や経験に依存しているだけ。

同一性や一貫性なんてものは入れ物ありきなんじゃないかって僕はよく思う。

今日の僕という水は僕という流れの中でそう考えて、そんな僕を含んだ誰がである水は、また違う流れの中で異なる景色を眺めては、まるで別世界を語るように流れる誰かと呼ばれる。

それすら固定化されず、擦り減って丸くなった岩に合わせて流れを早くしたり、土砂に堰き止められて流れを止めたり。

同じ場所でも時々で流れを変えて違う景色に触れて、それでも必ず流れていく。

僕という水は雲としてありたいな。
ふわふわあてもなく漂って、飽きたら全て放り投げて消えてしまいたいよ。
だけどまた気付いたらふわふわと浮かんでいるのも悪くないから、何度でも雲になる。

わからないけどね、何もわからないけど、僕は今日そんなことをぼーっと考えた。

明日の僕はまた何の意味もないことを考えて、飽きたらまた流れるように、誰かにこのサイクルを預けるんだ。

その中で水に触れた岩が砕けたり、育んだ草木が花を咲かせたりして、見える世界が変わる。

それが人生で、それに過去も未来も自分もないんじゃないかな。

何を見て感じたかが全てなら、全ての場所を自分として流れ続けたら、見える世界に飽きないんじゃないかな。


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