劇作家協会の会報に文章を掲載してもらったけれども、控えめに言ってキレてる。

Japan Playwrights Association - 会報“ト書き”69号 (jpwa.org)

劇作家協会の会報ト書き69号に私の文章が掲載された。上記のリンク先で掲載されている投稿コーナーに投稿して、掲載していただいたものだ。また、新会員100文字メッセージも自己紹介を載せている。
天乃こどもの文章が印刷されたかたちでどこかに掲載されるのはおそらく初だと思われる。内容がいいから掲載されたとかではないかもしれないが。
とても小さなことではあるが、記念すべきデビューともいえよう。

さて、それでも私は「こんなことなら投稿しなければよかった」と思った。
なぜか。
同号に中屋敷法仁の文章が1ページを割く形で掲載されているからだ。
私は、届いた会報を燃やしてしまいたいくらい憤っている。

同号ではハラスメントに対するステイトメントや、ガイドラインが掲載されている。特集『いま演劇を取り巻くもの』のなかに、それらと、中屋敷法仁による文章が、あろうことか、同じ特集の枠内で掲載されている。

端的に言って、ハラスメントをなくしていこうとするならば、中屋敷法仁に文章を書かせていてはいけない。そうした小さなひとつひとつの「擁護」が積み重なって、新たなハラスメントを生み出していく。
ト書き編集部として名前を連ねている方々を見たところ、そしてさまざまな人から聞いた話と合わせて考えても、中屋敷法仁の素行について誰一人知らないということはありえないだろう。

それでも、「この特集に、載せていい」と思ったのか?

あるいは、私のような人間による、こうした反応を期待していた――と、いうのは、あまりにも好意的な解釈かもしれない。

いや、私は期待しすぎていたのだ。

最初からこのような事態は想定して、「中屋敷法仁が同号で文章を書くならば掲載を取り下げます」といえばよかったのだ。
私はたとえ戯曲賞であっても、中屋敷法仁が審査員をしている限りは絶対に出さないし、後から分かった場合(劇作家協会の戯曲賞は希望投票で選ばれるため、応募時には分からない)には通っていても取り下げるつもりでいた。
にもかかわらず、こんなことになってしまったのは、私があらかじめ取りさげますと言っておかなかったことに落ち度がある。

まさか、2023年にもなって、劇作家協会において、このような特集で中屋敷法仁に文章を書かせていいと判断され、会報として配られてしまうとは、思わなかったのだ。

本当に悲しい。
怒りしかない。

そして、掲載されている中屋敷法仁の文章についてだが……。

少し引用する。

「舞台上でキスしたんですよ。フリじゃなくって本当に。あれにはびっくりしました」感想の中で芸能人同士のキスシーンを真っ先にあげる彼に呆れつつも、やはり悲しく思う。

一般社団法人 劇作家協会 発行(2023)『会報ト書き69号』収録 中屋敷法仁「遺言と産声」P.16

いったいどの口が言っているのだろう。
お前は呆れている場合ではない。

これは実際に私が現場で目撃したことであるが、中屋敷法仁は、当時20代前半の若手演劇人が演劇の感想を言い合っていたところ、
「〇〇はブス。ブスなのに私はブスじゃありません美人ですみたいな感じなのがムカつく。だから〇〇に会うたびにブスって言ってやってんだ」
「△△はブスばっかり囲ってんだよ」
このようなことを言って遮っていた。

あまりにも侮辱的な内容で、わたしはブスと言われていた劇作家のファンでもあり、知人でもあったため、とても傷ついた。
この話を色んな人にしたところ、「中屋敷ってほんとブスとかよく言うよね」などと返ってきた。
中屋敷にとって女性の容姿を侮辱することは、口癖のようなものなのだろう。あろうことか、「相手にブスと直接言った」ことを若手の前で自慢までする。信じられないくらい醜悪な人間である。

新たな時代を生み出すのは君だ。君よ。どうか、君に期待してくれ。

一般社団法人 劇作家協会 発行(2023)『会報ト書き69号』収録 中屋敷法仁「遺言と産声」P.16

中屋敷の文章は、これで締めくくられる。

新たな時代をつぶしているのはいったい誰なのか。
若手が演劇の感想を話しているところに割って入って、作品の内容とはまったく関係のない、劇作家の容姿を侮辱して、議論を台無しにしてしまうような人間が、いったいなにを言うのか。
それだけではない。
Twitterでがんばって調べれば、私以外にも中屋敷の加害行為、セクハラ発言について言及しているものは見つかる。

このツイートが、どうして35いいねもされている(2023年4月28日12時時点)のか、ということをよくよく考えたほうがいい。

とはいえ、中屋敷は若手に対して面倒見がいい。それは、女性への性的接触を主目的としたものではなく、やる気のある若手の男性作家も、心から応援しようとしていることは知っている。
私が残念に思った現場も、そうだった。
中屋敷は、東京ではほとんど名前も知られていないような若手の男性作家の面倒を見て、呼びかけ、交流の場をつくっていたのだ。
そうした中屋敷の行動は、若手にとってどれだけうれしいことだろう。
中屋敷法仁ほどの人が、自分を見てくれている、どれだけすごいことだろう。
そこにあるのは、純粋に演劇が好きで、演劇の作り手を愛していて、新たな作り手を応援したい、その気持ちは絶対にあって、それを私は否定しない。
それをぜんぶグルーミングだと言い切ってしまうつもりはない。

けれども。

そうした現場や、交流のなかで、結果的に行われていることが、いったいなんなのか?

私を失望させ、そしてほかにも多くの若手を失望させ、あるいは、そんな言葉では言い表せないくらいの傷を残してきたであろう、その中屋敷が、「君よ」と言っても、そんなものは、空虚であるどころか、有害ですらある。

こんな文章を掲載していいわけがない。

いい加減にしてくれ、ほんとうに。


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