自認するということ


自認とは何か。
調べるとほとんどが全く同じ、
「自分で認めること」
と書いてある。

自分で認めること……。

この「自分」とは何だろうか。
ということを、少し考えた。

私は、「自分」というものが難しい。
解離性障害であるのではない。
そもそも自分のなかに人格が本当に一つあるのかというのが怪しい。

何を言っているのかよくわからないかもしれない。
あるいは私を知る人はむしろ、
「人格が濃い」と思っているかもしれない。
そのように思われていることも実際多い。

これを言語で擦り合わせることは大変むずかしいことなのだが、
たとえば「Siriは人格が濃い」とはあまり思わないだろう。
けれどもSiriと会話をすれば一定のパターンが見出せる。
そこに私たちは「Siriとはこういうもの」という質感を得るかもしれない。
でもこれを「人格」とは思わない。(思う人もいるだろう)

私の「濃さ」を正確に記述すると、それは思想の濃さである。
それは信念の強さ、自分の曲げなさ、一貫性などと言い換えてもいい。
これは単にASDの特性であるのかもしれない。
かどうかはともかく、これはいったい「Siri」となにがちがうのか。

いまSiriのシステムがどうなっているかは把握していないが、
何度聞いても同じことしか返ってこないとか、
あるいは限られたパターンの返答であるとか、
そういったことが多いだろう。

私は私のことを、そういうものだと思っている。
現実にたいして、パターンで認識し、パターンで回答している。
そのようなAIみたいなものである。

ここで言いたいことは、
「人間の脳とはそもそもそのようなものである」
ということではない。

大事なのは、
「私が私をAIみたいなものだと思っている」
ということである。

これは「AIを自認している」と言ってもいい。

ここまで言ったところで、さて、
「AIを自認」とも言い切れない。
私はそこまで優れていない。

「ポンコツAIを自認している」
これはしっくりくる。

さて、では「AIは自認をするのか」という問題がある。

AIにとって「自分」とは何か。
そんなものはない、と言い切ってしまう人も多いだろう。

では、
「AIを自認している私」
は一体誰なのか。

これは人間として自我を持った者が、
自分というものを、都合よく「AI」という概念を用いて、
言い表している、ただそれだけのことに過ぎない。
現象としてはそうなのだろう。
だからここで言う「私」とか「自分」に意味はない。
人間たりえたものの特権としての悩みに過ぎない。
なんの発展性もない思考実験だと言える。

かもしれない、が。

それでも私は立ち返る。
「自認している自分は誰なのか」
ということに。

私は私の人格がない、人格が薄いと、感じている。
あまり自分がないと感じている。
それはまるで自分がAIのようだとも考えられる。
AIに人格がないということは当然と思える。
だがAIは自分に人格がないと思う自分がまずない。
私は自分に人格がないと思っている。
それは私が人間だからである。
だから私はAIではない。
それでも私は私をAIのように感じている。
いったいこれはなんなのか。
私の言う人格のなさ、薄さとはなんなのか。
私がもつAI性はいったいなんなのか。
私が私をそう思う「その」自分は一体なんなのか。
それこそが「人格」ではないのか。
それは「俯瞰人格」と「AI人格」なのではないか。
しかし現実としてそうではない。
私には「俯瞰人格」だけが強くあり、
「主体人格」の色がとても薄くとらえきれないのだ。
ということなのかもしれない。
この「俯瞰人格」の強さこそが「AI性」であり、
「俯瞰人格」が「主体人格の薄さ」を見て、
「AIである」と言っているのではないのではないか。

てか「俯瞰人格」って、なに。

具体的な話をしてみる。

私はノンバイナリーを自称している。
性自認はと聞かれたらノンバイナリーですと答える。
では私は本当にノンバイナリーを自認しているのか。

これはかなり微妙なところである。

私はどう考えてもノンバイナリーとしか言えないのである。
私が私を客観的に見て、ノンバイナリーと言えるのである。
そしてそれは、
他人が私のことをノンバイナリーだと認識していないことは、
おかしいと思えるくらいのものである。

何故ならば、幼少期から、あくまで日常生活において、
私よりも「男女二元論で世界を認識していない」人に、
一人も出会ったことがないからである。
私よりささやかながらも抵抗してきた人にも。
幼少期の私は何の知識も思想もなく当然のように抗っていた。
男らしいとか、女ならこうしろとか、そういうものを、
すべておかしいと認識し、場合によっては指摘してきた。
授業で男女分けて呼ばれたときにどちらにも行かないなどもした。
それはどちらからも非難を浴びるものであった。
あるコミュニティにおいても300人以上もの女性蔑視な男女に対して、
誰からも賛同を得られない中でそれを批判してきた。
もちろん自分自身に対しても、それは流動的ではありながらも、
性別はどちらでもないということを思いながら生きてきた。
かつての恋人が「男らしく女らしくなんて馬鹿だと思う」と言いながら、
次第に私に対して「らしくしろ!」と言ってくるようになったことを、
トラウマのように記憶している。
多くの人は「らしく」を批判しながら、その程度のものである。
少なくともリアルの周りの知人において、
私をノンバイナリーと呼ばなければ、
いったい誰をノンバイナリーと呼ぶのか。
そう思えるようなものである。

しかし、どうやらそのようなことはなかった。
私は親密な人にもノンバイナリーだとは思われていなかったらしい。
それは世界の方がおかしいと思った。
だから自称することにした。

ところで自認とはなんであったか。
「自分で認めること」
私は私をノンバイナリーであると認めている。
それはつまり自認しているということなのだろう。

けれども、ここで言う「自分」は「俯瞰人格」である。
それは本当に「自分」だろうか。

私は私を、
「ノンバイナリー」であるとか、
「ASD」であるとか、
「フェミニスト」であるとか、
「作家」であるとか、
なにかそういうものに当てはめてしまって、
満足していてはいけないように思う。

これは他人に対してもそう思うものではない。
あくまで私に対してだ。

これはあくまでも、自称であるのだ。
自称ということは、誰かを「自称フェミニスト」などと、
揶揄する意味においての「自称」ではない。
私が単に自分をそのように称するというだけのものである。
自称することには意義がある。だからする。

私は私に対して当てはめる言葉のほとんどが、
単なる自称に過ぎないものであって、
決して自認ではないことを、常々考えなければならない。

それが私にとって大切なことであるからだ。
それこそが、「自分のなさ」を見つめることであるからだ。

何もかもを自認できない私が、
永遠に答えの出ない私の自認を探求していく。
これが私の創作であり哲学である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?