喜怒哀楽でできたホログラム。
寝起きになにか気づいたり
腑に落ちたりすることがあって、印象的だったこと。
以下 ツイッターメモ
夢からの流れで、うつらうつらといろんな記憶がフラッシュバックされていろんな登場人物が出てきたものの実際には誰もおらず、たださまざまな感情知覚が映し出されてるに過ぎなかった #夢の続き
誰かと認識されているものは感情知覚が映し出されているに過ぎないから、それがなくなると“誰”もいなくなる。
嫌いだなあ好きだなあとか想いによってその人を人として際立たせている。なんの想いもその相手に映し出されなければなんのリアリティ/存在感もなくって認識もされない。
感情思考=自分となっているときにはそれらがそのように反映されて見えているし、感情思考と一体化していないときには、そのような風景が広がってる。
感情が伴うドラマには
相手 他者 登場人物がつきもの
憎たらしい相手、愛してやまない相手、消えてしまえという相手、いつまでも一緒にいたい相手、苦しみの原因のような相手、喜びの源のような相手、、、などなど
喜怒哀楽 人間関係
なんらかの想いの対象
その「相手/他者」としてみえているものは
喜怒哀楽でできた「ホログラム」のようなもので
実際には「 誰もおらんのだねー 」という話。
今回のそれは「 他者は自分の鏡 」というようなことが
言おうとしていることとはちょっとニュアンスがちがって、
たぶん出典?はここから来ているのかもしれないけど、
「 他者って?自分って? 」
という視点からみてみると、
また違ったようなニュアンス(印象)になってくる。
「 相手のこういうところが嫌なのは
自分にも同じようなところがあるからだよー 」というより
そもそも 相手 と呼んでるものなんて存在してなくて
そこに見えているものは 想い/記憶 でしかない。
その 想い記憶 というのは
わたしの想い記憶 というより、
「 共有財産 」のようなもので
その共有財産のことをカルマといったりしてる。
この世界/空間が スクリーン で
自分という 映写機 から
いろいろな 想い/記憶 が映しだされて
「 そのように 」みえてる
世界全体が プロジェクトマッピング みたいなものだ
* 現実化とよばれているものの原理もおなじで
そのようにみえる =それが現実( それはもう現実化といっていいとおもう。)
って、それもこれも相手も“想い”でしかないんだー
ということに気づくと
対象/他者 は消えてしまう。
ひとつ に溶け合う=消える。
主体客体という隔たりが消えてしまうし
相手どころか自分さえ、いない。
そうやって、
他者が消えると同時に自分も消えてしまうのは
他者は、自分を自分たらしめる「拠り所」だから。
映し出す鏡がなければ、自分という存在もみえてこない。
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