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#3 遺書を書くということ。遺書はわたしにとっての祈りのことばだった話。

とあるワークショップで遺書を書く機会があった。その体験から、生きること、そして死ぬことを考えてしまった。

「あなたは10分後に死にます。残された時間で遺書を書いてください」


そんなショッキングな問いで、そのワークショップは始まった。ワークショップの全貌は、【番外編】を。https://note.com/amanocchi_0810/n/n2807f96d7b8a

最初の3分、頭が真っ白になる。誰に何を伝えていいか分からない。このままではいけない、と思い直す。とにかく何か書かなければ。やはりここは家族への感謝の気持ちだろう、と書き始める。書き始めると、どんどん言葉が出てくる。「今までありがとう」「楽しい人生だったよ」。そして、その後にこう続く。「君らしく生きて欲しい。きっと大丈夫」。

普段言えない感謝の言葉


10分はあっという間に過ぎ去る。言いたいことを言えたという満足感はどこにもない。10分はあまりにも短いが、現実はそれすら与えない可能性だってあるのだ。そう、「感謝の気持ちは、生きてるうちにどんどん言った方がいい」というありきたりの教訓を得る。
しかし、その”ありきたりの教訓”がなかなかできない。なぜだろう?
人生の最期に口にする感謝の言葉。それは、普段の生活でのちょっとした「ありがとう」とは違う、「居てくれてありがとう」という、その存在自体に感謝する特別な「ありがとう」なのかもしれない。それを伝えることはなかなか難しい。死者という立場を利用して、特別な「ありがとう」を演出しようとする試みなのかもしれない。

そして祈り


感謝の言葉の後に続く、「君らしく生きて欲しい」という言葉。これは何だろう。もう君に何もしてあげられることはない、君は一人でも大丈夫ということか。なんと不遜なことか。生きていれば、何らかの影響を与えることができる。遺されたものは、自分がいなきゃダメだと思っていたということか。不遜だ。
そう思ってから、もう一度この言葉を噛みしめてみる。これは「祈り」の言葉ではないのかと。人はどんな時に祈りを捧げるのか。もう、自分の力ではどうすることもできないほど追い込まれた時、人は祈るのではないか(たとえ神を信じていないとしても)。そう思うと尊い。最期の瞬間に他者を思える自分の人生が尊い。
そして、この祈りは、生者とつながっていたいという「死者の祈り」でもあるのではないか。祈りとは、未来を想像する行為。死ぬその瞬間に祈るということは、生の世界との断絶を拒む、最期の願い。

「祈り」で終わることの深淵


他者の幸せを最期に祈ることは、ある意味、「神になる」行為かもしれない。遺された者が、この祈り(遺書)を目の当たりにし、天を見上げ、死者に感謝する。その行為はまさに、神への祈りではないか。そうであるならば人は最期に祈ることで神になり、生者とつながり続けるのかもしれない。
他者を想い、他者への祈りを捧げることで終わる人生。そうやって「祈り」というバトンをつないでいくことが命のつながりということではないか。

手を合わせて祈るということ


ここまで考えて、疑問が湧いてくる。今回は10分という時間が与えられて、祈りのことばを遺す時間が与えられたから幸運に恵まれたのだ。バトンを正確に渡す機会があったということだ。しかし、人生はそれほど甘いものではない。バトンを渡す前に転倒するかもしれないし、タイミングが合わずバトンパスに失敗するかもしれない。どうすればいいのか。
それは、自分もバトンを受け取ったのだということを生きているうちに見せるということだ。つまりは先祖に祈りを捧げるということ。お墓参りの大切さはそこにあるのかもしれない。あるいはお寺や神社で手を合わせることも。自分が死んだあとに祈ってもらいたければ、自分が祈る姿を見せるということだ。お墓参りも神社やお寺で手を合わせることも、それほど重視してこなかった自分から、こんな結論がでることがとても不思議だ。でも、多分そんな気がする。
祈ることで生と死の境をなくす。そうすることで、殊更に死を恐れることなく、生を謳歌することができるのではないか。そんなことを考えたのです。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
よろしければ、またお付き合いください。

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