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【全文無料公開】つなぐ経営 相続専門でグループ1000名を超える税理士法人をつくった、異端の経営術

つなぐ経営
グループ1000名を超える相続専門の税理士法人レガシィ。そのレガシィをつくった天野隆を追ったノンフィクション。執筆はパワーコンテンツジャパン株式会社の横須賀輝尚が担当。いま、初めてレガシィと天野隆の歴史が公開される。noteにて限定全文無料公開中!

プロローグ

二〇二一年十一月、次の世代へ

税理法人レガシィ。東京都大手町に本社を置き、グループ総勢一〇〇〇名を超える相続専門の税理士法人。相続税の累計申告数は一万六千件を優に超えており、税理士やいわゆる士業と呼ばれる業界において、この名前を知らない専門家はいないとさえ言われる巨大グループ、そして紛うことなきレジェンド的存在である。

このレガシィを実質的につくりあげたのが、天野隆という男だ。公認会計士・税理士としての実績はもとより、著作は二〇二二年現在で九十八冊。正に税理士の世界での大成功者と言える。

二〇二一年十一月。天野は代表権を息子の大輔に譲った。大輔に譲ったのは、かたちだけの代表権ではない。経営に関するすべての権限を大輔に承継したのである。グループ一〇〇〇名、相続税の累計申告件数が一万六千件の法人すべてをだ。

一般的に、ここまで巨大化したグループ企業の代表権を、先代がすべて譲るケースは多くない。代表取締役会長として、あるいは顧問として残り、実権を先代が握ることがほとんどだ。しかし、天野は違った。会長としてグループに残り、現役で仕事は続けていくが、あらゆる経営判断をすべて大輔に承継しているのである。

ここまでの規模となれば、引き継ぐ財産や人材、そして経営権は相当なものだ。しかし、天野の考えは違う。

「相続や事業承継で引き継がれていく中で、財産などは大きなものではない」

天野はこう話す。これまで数え切れないほど受任してきた相続業務の中で。そして、実際に大輔にレガシィを事業承継した中で、財産を引き継ぐことはそれほど大きなことではないと言うのだ。

では、大輔に引き継がれたものは一体なんだったのか。

税理士法人レガシィをつくり上げた天野隆氏の人生を通じて、その“何か”について本書で紐解いていこうと思う。

第一章 “レガシィ”はここからはじまった

”公認会計士 天野隆“はいかに生まれたか?

税理士業界、士業の世界で圧倒的な知名度を誇る天野だが、二代目であることはあまり知られていない。先代である天野の父、天野克己は一九六四年に天野克己税理士事務所を開業している。天野が十二歳のときだ。天野が父親の事務所に入所したのは天野が二十八歳。正式な事業承継は一九八七年。天野が三十六歳になる年だった。

天野に二代目のイメージがないのは、レガシィを一〇〇〇名を超えるグループに育て上げたのは天野自身の功績であり、事業承継時の組織は二〇名を少し超える程度の規模だったからだろう。そういう意味では、二代目というよりは第二創業という意味合いが強い。

天野が父親の職業である税理士を意識したのは天野が高校生の頃。当時、慶應義塾大学の付属に就学していた天野は将来を模索していた。付属だから大学受験の必要はない。天野が希望していた経済学部の就職の花形は金融業界か商社。しかし、天野にはあまり魅力的に映らなかった。

当時の就業概念は終身雇用。一度入社したら一生同じ仕事、同じ業界で定年を迎えるのが当たり前の時代だった。「一生の仕事だ。どうせやるなら、自分の人生を自分で決められる仕事のやり方を選びたい。」そう考えた天野の視野に、自然と独立独歩している父親の姿が入ってきた。

天野が会計人になると決めたきっかけは、その自由度と努力次第の青天井だった。先輩の公認会計士からは「努力次第で月収一〇〇万円でも二〇〇万円でもいくことができる世界」と言われ、安定した金融業界や商社への就職を選択肢から外したのである。

一九七〇年、天野は慶應義塾大学経済学部に進学。簿記の勉強を始めた。勉強の甲斐もあって大学四年次には公認会計士二次試験に合格。次のステップは就職となる。公認会計士の仕事は監査だ。そのため、税理士である父親の事務所に入所することなく、天野は大学卒業後、監査法人への就職を決める。当時世界五大事務所と呼ばれていたアーサー・アンダーセン。ここから天野の会計人生が始まったのである。

なお、このとき現レガシィマネジメントグループのCOOである天野紹子、旧姓平林紹子と出会っている。大学卒業後、天野は紹子と結婚。紹子は途中でレガシィの経営に参画し、いまではレガシィグループに必要不可欠な人材なのだが、紹子がこのような手腕を将来発揮することになるとは、天野は夢にも思っていなかった。

ヒューストンで学んだアンダーセンの教え

父親が税理士だったため、公認会計士を志した天野にとって、父親の事務所は就職の選択肢ではなかった。天野は公認会計士の王道である、監査法人への就職を考える。当時は公認会計士を目指すなら、大手監査法人に就職するのが当たり前だった。

日本公認会計士協会では、試験合格者向けに就職説明会が行われる。監査法人といえば、激務なのは言うまでもなく、仕事そのものに厳格性を求められる。そのためか、多くの採用担当者はスーツを来たエリートのように見えた。その中で、天野の興味を強く惹いたのがアーサー・アンダーセンだった。

アンダーセンの担当者はデスクに腰掛け、まるで友人に話しかけるようにフランクに会話をする。「うちに来たら、アメリカにも行ける。どうだい?本場のアメリカに興味はないか?」。天野の心は躍った。会計制度はイギリスで始まった制度だが、もっともレベルが高いのはアメリカだ。自由闊達でいて、アメリカの会計にも触れることができる。高みを目指したい天野にとって、アンダーセン以外の選択肢はなかった。

アンダーセンに入社後、天野は約六年間、アンダーセンで会計を学ぶことになる。当時世界五大事務所と言われていたアンダーセンでの仕事は、ハードワークを極めていた。量も質も求められる職場環境の中、天野は必死に仕事に喰らいつき、実力を養っていく。アンダーセンでの仕事はハードだったが、天野を取り巻く人間関係はとても良く、アンダーセンの先輩からは多くのことを学んだという。

実際、天野はヒューストン事務所にも勤務し、アメリカでの会計業務を経験している。すでに女性の社会進出が進み、仕事のやり方やクオリティなど、天野はヒューストンで大きな影響を受けていた。

あるとき天野は、代表パートナー公認会計士に素朴な質問をぶつける。「なぜ、アンダーセンはこんなに伸びたのか?」と。先輩は「先人のノウハウをきちんと引き継ぐっていう文化があるからじゃないかな」と答えた。こうしたアンダーセンの文化は天野に強く影響を与えた。天野は給料をもらいながらも指導を受けている状況に葛藤しながらも、いつかこの受けた恩を仕事でアンダーセンに返したい。そう考えるようになった。

ところが、天野はアンダーセンに恩を返す機会を失うことになる。その理由は、天野の母親から最後の言葉を聞いたからだった。

母が残した次世代の言葉

一九七七年、天野は紹子と結婚する。天野が二十六歳のときだ。翌年天野は公認会計士三次試験に合格。アンダーセンでの仕事も順調に進んでおり、監査部門を経て税務部門へ移動し、さらなる充実感を感じていた。一九七九年長男大輔が生まれた。

そんな矢先、天野の転換期が訪れる。天野の母の死だ。天野の母は死の間際、天野の手をとってこう言ったという。

「あなたとお父さんはね、性格も違うしやり方も違うから、うまくいかないと思うけど…それでも、お父さんを助けてあげて頂戴ね。」

天野はこの母親の遺言で、アンダーセンの退職を決意する。自分を育ててくれたアンダーセンに対して、申し訳ない気持ちはもちろんある。まだ恩返しも仕切れていない。しかし、やはり母が残した言葉は重く、天野はその遺志をしっかりと受け止めた。

一九八〇年、天野は父親の経営する天野克己税理士事務所に入所する。当時の事務所は上野にあり、中小企業の企業顧問を中心業務とした、従業員数も三名ほどのいわゆる「街の税理士事務所」だった。だが、天野には事務所を拡大していくという小さな野心がすでにこの頃から芽生えていたのである。

天野が正式に天野克己税理士事務所を事業承継するのは、入所から約七年後のことだ。しかし、実質的には入所四年目には経営に参画していたという。天野は自分に求める水準が高い。自分が入所することによって、自分も給与を得ることになる。最低でもそれ以上の稼ぎをもって来なければならない。天野は入所後、必死で事務所の拡大に勤しんだ。

当時、まだ税理士業界に「営業」という概念はなかった。良い仕事をしていれば、紹介で自然に仕事は増えていく。むしろ税理士事務所が営業をすること自体を批判する空気さえあった。そんな中、日々事務所の拡大を画策する天野を見れば、焦っているようにも見える。そのため、これまで通りに事務所運営を継続したい父親との間で確執もあったという。

母親の遺志もあったのだろう。天野は引き継いでいくこの父親の事務所を、なんとかしたかった。当時としては珍しく、様々な営業にも取り組んでいる。事務所は少しずつ拡大し、徐々に職員も増えていく。一九八二年には京橋に事務所を移転。そして、いまのレガシィの源流となる転換期が訪れる。それが「資産税」の仕事だった。

相続専門のスタートライン

税理士法人レガシィといえば、相続税専門の税理士事務所として名が通った存在だ。では、最初から相続税ばかり取り扱っていたのかといえば、やはりそうではない。先述のとおり、父親の天野克己税理士事務所は、中小企業を中心とした企業顧問がメインだったため、相続税専門の事務所へ変貌を遂げる前は、天野自身も顧問数を増やすための営業活動やその学びを経験している。

例えば、自分の視野を広げるために、TKCの講師という機会を得ながらほかの税理士事務所の見学は欠かさなかった。見学させてもらえる事務所があれば、それが北海道だろうが九州だろうが喜んで馳せ参じた。事務所の拡大を目指していた天野は、とにかく規模感の大きい事務所を好んで見学をしていた。これがのちのレガシィに生きていく。

また、二〇代から講演活動や執筆活動にも積極的だった。「まずは自分たちのことを知ってもらわなければ、始まらない。」そう考えた天野は、講師として呼ばれればどこにでも行くし、またどんな小さな連載でも執筆の仕事があれば積極的に受けていった。執筆については、三十二歳で念願叶い、第一法規から「巡回監査」という書籍の一部の章を執筆し、初めて出版する。こうした地道な営業活動が、いまのレガシィの土台をつくったのである。

天野の転換期となったのは、一九八三年。当時、天野は公認会計士の受験時代からの盟友、山田淳一郎氏を始めとする公認会計士らとともに資産税の勉強会を開催していた。なお、山田淳一郎氏は税理士法人山田&パートナーズの創業者である。

資産税を学びながら、天野はこの大きなビジネスチャンスに気づき始めた。中小企業の顧問業務は、基本的に代行作業だ。そうではない、より一歩進んだコンサルティングをしなければ、未来には生き残れない。そして、資産税のターゲットは個人。他事務所が追っていない客層になる。加えて、資産税は簡単に参入できるほど、簡単な業務ではない。

つまり、資産税との出会いは、事務所拡大のための大きなチャンスだった。言い換えれば、ライバル不在のマーケットを見つけたのと同じ。天野は資産税・相続税の分野に、大きな希望と胎動を感じていた。

この分野の「プロ」になれば、事務所を大きくしていくことができる。そう確信した天野は資産税、相続税の分野に大きく舵を切り始めた。

事業承継で失ったもの

天野が父親の事務所に入所し、数年が経った頃。資産税に狙いをつけた天野の戦略は当たっていった。一九八五年には、ついに事務所の売上は一億に達する。相続コンサルティング会社として株式会社財産クリニックを設立し、山田淳一郎氏と共著で「土地の税金と節税戦略」を出版。天野の想いに比例して、事務所は拡大していった。

一九八七年には、事務所を京橋から秋葉原に移転。坪数は八十九坪と創業した事務所の一〇倍近い規模になり、従業員数も三〇名に迫る勢いだった。天野は変わらず拡大のため、営業活動を続けた。顧問企業の数が増えれば、当然予期しない相談や案件も増える。

天野は基本的にプロ志向の人間だ。税理士として、ビジネスパーソンとして自分に求める水準は極めて高い。もちろん、事務所全体のクオリティも高めたい。拡大を考え、組織のプロ化を目指す天野の視野は徐々に狭くなり、この高すぎるプロ意識が将来の火種になっていく。

一九八七年、事業承継のそのときがやってきた。天野の父、天野克己七〇歳。天野が三十六歳のときである。帝国ホテルにて天野克己の会長就任パーティーが催され、天野克己税理士事務所は事業承継で正式に公認会計士税理士天野隆事務所となる。

このように正式な事業承継は一九八七年のことなのだが、天野克己が代表を降りる前に、すでに経営の実権としては天野自身が握っていた。とはいえ、あくまで代表は父親の天野克己であるし、自分は影の立役者。事務所のためと全力を尽くしてきた。そのため、どこか遠慮もあったのだろう。しかし、これからは正式に自分が代表となる。あらゆることを自分で決め、自分のやりたいことができる。

代表になってからというもの、天野はより仕事に打ち込んだ。顧問獲得のために、講演で全国を奔走し続けた。講演回数は年に二〇〇回を超えることもあった。増える仕事に対応するのはもちろん職員だ。旧来の税理士事務所の労働環境よろしく、日々職員の負荷は増えていく。

勤務する税理士や職員は、この頃すべて天野自身が採用した人材だった。だから、天野は彼ら彼女らを信頼していた。そのため、職場では常に高い要求をする。代表となり、全力で拡大を目指した就任一年目。天野に想定外の出来事が起こる。天野が代表になって一年。天野についていけないと退職を願い出る社員が増えていった。その数一〇名以上。自分で採用した職員の約半数が自分の元を去っていくという、天野にとってはなんとも苦しい事業承継となったのだった。

第二章 飛躍と重圧の狭間で

中央の道を歩んでいく

天野は会計人としても、経営者としても早くプロと呼ばれる存在になりたかった。そのための勉強は厭わなかったし、時代柄、深夜残業なども珍しくなかった。その高い水準は職員にも向けられていた。その結果、大量離職という結果を生んでしまう。

二十五名で担当していた顧問先は約五〇〇社。半数近くまで減少してしまった職員では、到底対応しきれない。そして、経営者として自己否定をしてしまうほどの焦燥感に駆られる天野に求められた仕事は、顧問契約の解消願いだった。現在の人員で回せる顧問数まで減らさなければならない。経営者としても税理士としても苦しい決断だった。

そして、天野をさらなる現実が襲う。顧問契約の解消のため顧客先を回るのだが、引き止める声は実に少なかった。多くの顧客は、「そんな事情ならほかの事務所に頼むだけ」と、あっさりと天野の顧問契約解消の申し出を受け入れる企業ばかりだった。これには天野も落胆した。

「このままではダメだ。替えの効かない事務所にならなければ、生き残れない」

天野は痛感した。単純に税務を回すだけの事務所では、到底生き残れない。当時、すでに事務所の経営は資産税・相続税にシフトし始めていたが、それだけではまだ足りない。天野は講演活動や執筆活動を継続しながら、この資産税・相続税でトップになるための施策を日々考えていた。そこで生まれたのが「報酬額表」だ。

実はほとんど知られていないが、資産税・相続税の申告に関する報酬額表を業界で初めてつくったのは天野である。これまでブラックボックス化していた報酬額をオープンにしたのだ。これをきっかけに、資産税部門の売上は伸びていく。

一九九〇年、株式会社財産クリニックを株式会社FPステーションに社名変更。事務所を岩本町に移転する。このときすでに資産税部門の売上は二億円を超えていた。職員の数も三〇名ほどまで持ち直し、書籍「決算書が読めなくて幹部と言えるか」が七万部を超えるベストセラーになるなど、現在の資産税・相続税専門のレガシィが見えてきた時期とも言える。

しかし、また新たな苦難が天野を襲う。翌年の一九九一年、地価の下落から起きた景気後退が起こる。そう、バブルの崩壊である。

知られざる“失われた一〇年”

実際に天野隆という人物と接するとわかるが、よくある巨大グループをつくり上げた旺然たる人物像とは全く異なり、その内面は柔和で懐が深い。その理由がここにある。

一九九一年、天野が四〇歳を迎えた年だ。バブル崩壊の影響も相まって、天野は初めて事務所の売上が下がるという経験をする。事務所の売上減だけでも経営者にとっては相当大きな衝撃だが、さらなる二重苦が天野に手を伸ばす。それが個人での借金だ。

バブル期とのちに呼ばれる一九八〇年後半は、株価も四万円に迫る勢いだった。当時、株式や不動産は過度とも言える高騰を見せていて、誰もがこうした資産形成に手を出した時期だった。天野も決して泡銭を狙ったわけではない。当時はこうした資産形成は珍しいことではなかった。天野も多分に漏れず、こうした資産形成をしていたのである。

ところが、バブルは弾けた。結果として、天野は個人で二億円近い借金を背負ってしまう。天野の四〇代は、事務所の立て直しと、個人の借金返済というふたつの大きな試練を抱えることになってしまったのである。

天野はこう言う。「借金苦の経営者にアドバイスをするときに、まず聞くのは『生命保険に入っているかどうか』。入っていたら、即解約させる。これの意味がわかりますか?」と。そう、借金苦の中で生命保険に入っていると、最終的に人は「死」を選択肢として考えてしまう。天野はまずその選択肢をなくすというのだ。

「楽になるというのは一種の錯覚なんです。命の方がよほど大切。」天野の懐の深さは、こうした自身の経験から来ていることは間違いないだろう。自らが大きな借金を背負い、逃げたくなる日々と対峙してきた。だからこそ多くの支持者が存在し、慕う人材がグループ一〇〇〇名をつくり上げている。

一九九二年、天野は事務所の主軸を相続税申告業務に決める。何か強みがなければ、業績を回復させることも、生き残ることもできない。企業顧問業務は徐々にほかの税理士事務所に引き継いでいった。自ら背水の陣を敷いたのだ。

ここから相続税中心となった天野の事務所の快進撃が始まる。なお、二億円近い天野の個人の借金だが、地道な返済を続けていった約一〇年後の二〇〇一年。そのすべてを返済している。

蓄積の九十八冊

一九九二年以降、天野の事務所は右肩上がりに業績を伸ばしていく。ここで少し天野の経営や営業に関するエピソードを紹介しておきたい。

天野が父親の税理士事務所の経営に関わり出したのは、一九八〇年前後のことだ。当時、税理士の世界で営業活動をする事務所は皆無に等しく、紹介で地道に顧問先を増やしていく事務所がほとんどだった。別の言い方をすれば、強い上昇志向の事務所がなかったとも言える。

天野は仕事が増えていかない状況を極端に嫌った。プロフェッショナルの仕事をし、その存在を知ってもらえれば、顧客は必ず増えるはず。逆に言えば、顧客が増えないということは、まだプロとは言えない。当時としては極めて珍しく、営業活動に力を入れていた。

講演活動については前述のとおりだが、天野の執筆活動にも触れておこう。二〇二二年現在、天野が執筆・監修した書籍はなんと九十八冊にも上る。中でも前出の「決算書が読めなくて幹部と言えるか」(中経出版)は七万部。「キャッシュフロー計算書が面白いほどわかる本」(中経出版)も五万部を超えるベストセラー。累計発行部数は六〇万部を超える。出版数・部数ともに税理士事務所経営者の書籍としては、日本一の実績だ。

天野の執筆活動にはふたつの側面がある。ひとつは単純な営業活動。ひとりでも多くの人に知ってもらうための執筆活動である。もうひとつの側面が「プロフェッショナルの証明」としての執筆だ。

法律を解説するだけなら、時間をかけて調べれば誰でもできる。しかし、プロとして重要なのは、独自の経験であり、そして持論である。相続業務で言うなら、ただ顧客の要望のとおりに手続きを進め、申告するだけならそれは本当のプロとは言えない。顧客の状況に応じて、自分の考えを伝え、最適な提案をしてこそ本当のプロだ。天野はそう考えているからこそ、自分の考えの表明の場として、そしてプロの存在証明として執筆活動を続けているのである。

そして、プロと名乗るなら、それが一時のものであってはならない。ビジネス書なら、数冊ベストセラーを出せば十分過ぎるほどの名誉と実績と言われる。しかし、天野は継続してこそプロだと考え、執筆を続けてきた。その蓄積が現在の九十八冊なのである。

恩人づくりが紹介を生んでいく

天野のユニークな営業活動のひとつに、「恩人づくり」というものがある。人を大切にする温かみと、経営者として強かな二面を持つなんとも天野らしい考え方だ。

天野の相続税の仕事の取り方は大きく分けて三つある。ひとつは講演や執筆活動などの周知活動。ふたつめはインターネットマーケティング。そして最後が「紹介」だ。天野はこの紹介に最も力を入れてきた。

相続税の仕事の発生元は、金融機関、不動産会社、葬儀社、そして既存客である。こうした紹介元のことを天野は「恩人」と呼び、この恩人の存在を最も尊重しようと決めた。実際、現在のレガシィには「恩人リスト」があるくらいだ。

天野はこの仕事の発生元に対して、積極的にアプローチをした。もちろん、ただ仕事がほしいだけでは紹介は生まれない。相手が金融機関なら、求められる講演があればいくらでも提案した。相手に貢献すれば、必ず返ってくる。その思いでこうした恩人たちに貢献していく。その結果、恩人からさらなる紹介が生まれるという好循環を生んだ。

恩人の中でも、最も紹介率が高いのは既存客だと言う。一度レガシィで良い仕事をする。そして二次相続や何か別のタイミングで思い出してもらう。仕組みとしてはシンプルだが、天野の「忘れられない」ための努力がまた驚異的だ。

マーケティングのセオリーから言えば、人は年に四回以上接点があると、その人物や会社のことを忘れずに心に留めておけるという。天野は既存客とできるだけ接点を持つようにした。年賀状や暑中見舞いの郵送はもとより、ニュースレターの発行や、書籍出版時には希望する顧客には書籍まで配布しているという。

基本的に相続業務というのはスポット業務だ。相続手続きや申告業務が継続することはない。「いつか」生まれる相続のためにこれだけのコストを投じて忘れられない存在になるというのは、「恩人」と定義した天野らしい戦略とも言える。

もっとも、こうした紹介が生まれるのは、顧客に喜ばれる仕事が前提だ。天野は相続の相談を受けるとき、必ず故人の仏壇の前で手を合わせる。そして、ひとつひとつ丁寧に仕事を積み上げていく。言うまでもなく、テクニックだけでは相続の仕事は務まらない。そして、次第に相続の仕事を積み重ねるうちに、相続の仕事そのものに関する天野の意識も変わっていくのであった。

相続事業に起きた異変

個人としては借金の返済に追われた四〇代だったが、事務所の業績は順調に伸びていった。業界としてはいち早くコンサルティング・ビジネスにも取り組み、同業である税理士事務所向けの教材制作・販売も当たりを見せる。インターネットがまだ一般的でなかった一九九〇年代後半、情報を欲していた税理士に向けた事務所経営術や実務解説の教材は飛ぶように売れた。

天野は、事務所経営のノウハウが他事務所に知られることに恐怖はないと言う。業界が活性化すれば、よりよいサービスが生まれてくるし、何より公開したところで自分はそれを超える自信がある。だからこそ公開するのだ。

相続業務に特化して約一〇年。天野は数え切れないほどの相続の現場に携わった。事務所の職員が増えてきても、天野は現場に出ることを厭わなかった。その中で、天野の相続業務に関する考え方に変化が起こる。

当初は法律と税金の仕事だった。法定相続人の確定や遺産の分割。そして相続税の計算と申告。こうした法律と税金に関する相談や実務が相続の仕事だと天野は考えていた。しかし、長期間相続の仕事を受けていると、同じ家庭から二次相続が起こるなど、スポットでない長期的に継続した相続の相談を受けることもある。

もちろん、法律と税金は重要な仕事だ。しかし、天野は徐々に違和感を感じていく。「相続で引き継がれるものは、財産だけなのか?」と。相続の現場にいれば、様々なことを感じる。明らかに親子とわかるような顔立ち。故人の話し方や癖の継承。そして、考え方や想いの伝承。もしかしたら、相続という仕事は、単に財産を引き継がせるだけの仕事ではないのではないか。順調に伸びていく業績の傍ら、天野はそんなことを考えるようになった。

一方で、そんな順調な相続業務にも異変が起こる。二〇〇一年頃、紹介元であり「恩人」のひとりだった銀行が相続業務に参入し始めた。いままで味方だった存在が、ライバルになってしまったのだ。業績は順調に伸びていたが、これでまた新たな販路を開拓しなければならなくなったのである。皮肉にも、天野が個人の借金を完済した時期だった。

二〇〇三年、公認会計士・税理士事務所天野隆事務所は法人化し、税理士法人思援(しえん)となる。この思援がレガシィにつながり、一〇〇〇名を超えるグループとなっていくのだが、この先思いもよらぬ人物が救世主になっていく。

第三章 つなぐ経営

想定外の援軍

法人成りした二〇〇三年から、金融機関からなくなってしまった紹介の案件の穴を埋めるべく、天野はより奔走していた。相続業務に専門特化した事務所では、企業顧問業務を手放したため、提携する外部の税理士も次第に増えていった。二〇〇四年頃には、こうしたグループ提携事務所は一〇〇事務所に迫り、本体の事務所の職員も四〇名までになっていた。

二〇〇五年、先代であり父親の天野克己が永眠する。八十九歳だった。予見できる年齢ではあったが、天野は悲しみに暮れた。その中で、自分が二代目として事業承継したことを思い出したという。三十代になったばかりの自分を信じて、父親は事務所経営のほとんどを任せてくれた。確執もあったが、最後は自分のことを信じて事務所を渡してくれたのだ。こんな思いに駆られたという。

事務所を継いでから二十五年以上。天野はひとりで走ってきた。その疲労感ともなれば、想像し難いものがある。健康上のデータも悪化していった。一方で、そんな天野を支えてきた人物がいた。妻の紹子である。紹子は天野と結婚したのち、三人の子どもを出産。主婦業を通じて天野を支えていた。子どもたちは徐々に巣立っていく年齢になっていたが、当時紹子は母親の介護もしており、やはり疲弊していたのだった。

天野は、家庭から支えてくれる紹子に対して、気分転換のつもりで「会社でパートでもやってみないか」と誘った。紹子には就業経験がほとんどない。これまで携わったことがある仕事があるとすれば、家庭教師のアルバイトくらいのもの。もちろん天野も戦力としての採用ではなく、家庭に疲れていた紹子に少しでも息抜きをしてもらえれば、というくらいの軽い気持ちだった。

紹子は事務所に入所後、天野の経営について次々と指摘をする。一般的に家族経営は上手くいかないことが多い。それは感情論で経営をすることになるからだ。会社の中の立場では言えなくても、妻という立場であれば様々な権限を持ってしまう。例に漏れず、天野は紹子とぶつかった。紹子の進言に躊躇はない。天野は小言のような進言に頭を悩ませていたが、「妻」というフィルターを外すと、その進言は実に的確なものばかりだった。

天野は冷静に紹子の進言を聞き、分析した。すると、自分にはないマネジメントの発想やアイディアばかりで埋め尽くされている。もしかしたら、紹子からのアドバイスは聞くべき金言なのではないか。そう考えたとき、天野は決めた。紹子を信じてみようと。

“レガシィ”誕生と事務所移転の大英断

紹子は入社後、特にマネジメントに関して頭角を表していった。最初は疑心暗鬼だった天野も、あまりにも結果が出るのでもう信じるしかない。

夫婦で経営している会社は決して少なくないが、多くの場合は経営者が夫。妻が経理というような、あくまで一社員でありサポートというかたちがほとんど。主婦から事業に参画し、経営までできるような場合は多くない。そういう意味では、紹子の参画そして役員にまでなって経営手腕を振るうということは、例外中の例外だと言える。

天野は紹子についてこう話す。「彼女のマネジメントはもう天賦の才能というか、勘が鋭いと言うか…本当によく色んなことに気付くんです。子どもを育てたということもあるでしょうけど、やはり感性の鋭い人なんだと思います。」

様々な努力とそれを蓄積させるタイプの天野。そして感性と直感で道を切り開く紹子。このパートナーシップは事務所を大きく拡大させていった。“レガシィ”が生まれたのも、紹子の進言によるものだ。「『思援』じゃ社員は集まらない。別の名前にした方が良い」という紹子のアドバイスによって、社名変更が検討された。

「思援」とは、「思いを応援する」という意味だ。決して悪い名称ではない。しかし、一般的にもっと支持される名称にしなければ、さらなる拡大は難しい。それが紹子の意見だった。天野はいくつも候補を考えるが、端から却下されていく。その候補の中で、一発採用になったのが「レガシィ」という名称だった。

どのように天野が「レガシィ」にたどり着いたのか。それはアンダーセンの経験まで遡ることになる。「先人のノウハウをきちんと引き継ぐっていう文化があるからじゃないかな」天野は代表パートナー公認会計士の言葉思い出した。

そうだ。事業承継も相続も、すべては引き継ぐもの。引き継ぐものは「legacy(遺産)」だ。母親の遺言、父親から引き継いだ事務所、想いや技術。すべてこのあらゆる「legacy」のためにあるのではないか。これが天野が出した結論だった。紹子はこの社名を即採用した。紹子の目にも間違いない名称に映った。これが「税理士法人レガシィ」の誕生である。

二〇〇九年、事務所も大手町のJAビルへと移転する。賃料も一気に上がり、正に勝負を掛けるような移転だ。ちなみにこの事務所移転も「人を雇いたいなら、大手町・丸の内のような若者にとってもっと格好良い場所に行かなきゃ」という紹子の進言であることは、あまり知られていない。

相続税法大改正と新しい風

二〇一一年三月。東日本大震災が起こる。レガシィも例外ではなく、大きなダメージを受けた。提携する税理士事務所は東北地方にも多く存在し、税理士事務所自体が存続できなくなったり、データが消失したりなど大打撃を受けていた。天野はコンサルティング部門の売上の一部を寄付することに決める。お金はまた稼げば良い。大切なのは人だ。天野はまたこの震災によって、物質的な財産だけが大切なものではないと気付いていく。

天野もこの年六〇歳を迎えた。もちろん二〇代、三〇代のときのようにはいかない。しかし、天野には経験と技術がある。このときの著作は七〇冊以上。日本経済新聞でも1面・2面の記事として税理士法人レガシィのデータを連続して取り上げてくれていた。そして迎えた二〇一五年。過去最大の追い風が吹く。相続税の大改正である。

簡単に言えば、相続税が課される対象者が増える改正。単純にマーケットが広がる。これは相続税専門のレガシィには完全なる追い風となった。同年に天野の著作は八〇冊を超え、グループは二〇〇名に届こうとしていた。そしてレガシィにまた新しい風が吹く。天野の長男、天野大輔の入社である。

大輔はもともと会計の世界を目指していたわけではない。文学部に進み、フランス文学を専攻。会計の世界に誘われることはあったが、興味を持つことができなかった。その後、世の中に求められる技術の習得を目指し、システムエンジニアとして就職する。エンジニアとしての日々は充実していたが、漠然とした将来に対する不安は消えなかった。そんなとき、天野と紹子が再度会計業界へ手招きした。

活き活きと仕事をする両親の姿を見て、大輔は会計業界への転身を決意。二〇一〇年、公認会計士試験に合格する。レガシィに入る前にできるだけ経験を積んでおこうと監査法人に五年従事。そして、何の因果か相続税の大改正のときにレガシィに入社することになる。

大輔の入社は、レガシィに新しい息吹を吹き込んだ。大輔の入社にあたって、経営幹部に近い特待のような待遇も用意されていたが、大輔は自分のちからでレガシィに貢献したかったため、現場を希望。そして、エンジニア時代の経験を活かし、各種のウェブサービスを構築していく。

天野がつくり上げた「legacy」を紹子が広げ、大輔が進化させていく。大輔が入社した頃、天野は六十三歳。これからのレガシィをどうするのか、考えなければならない時期が来ていた。

七十七日間の戦い

経営を成功させ、継続していくためには様々な要因が必要だ。それは時に資金であったり、あるいは人材であったり、またはタイミングであったり。その中でも、意外とフォーカスされないのが、経営者の健康問題である。近年でこそ、メンタルヘルス対策やウェルネス経営などと呼ばれ、心身ともに健康な経営が求められてきているが、経営者の健康が重要な要因であることは間違いない。

最前線で経営の手綱を取ってきた天野にも、体が悲鳴を上げるときが来てしまった。天野が六十五歳のとき、ミリッチ症候群と診断される。ミリッチ症候群とは、胆囊頸部の結石による圧排、炎症による総肝管狭窄をきたした病態のことを言い、天野には胆管がんの疑いがかけられた。

ただ、最終的な診断が出るまでに時間がかかった。検査し、様子をみて、さらに検査。この繰り返しで、最終的に手術をすることが決定。この手術によって天野の病気は寛解することになるのだが、入院期間は七十七日間。経営の現場をこれだけの期間離れたのは、天野にとって初めての経験だった。

一般的に、天野の年齢になれば大病のひとつがあってもおかしくない。人は体を壊すと心も弱くなってしまう。しかし、七十七日間。天野は鬱々たる気分でいたのかといえば、やはりそうではない。「入院中、一番つらかったことは?」と聞けば、「仕事ができないこと」というのだから、またこれも天野らしい。天野は退院後、ほどなく復帰をする。

天野はこの入院時期について、このように笑って話す。

「レガシィでは自社の売上に関するデータなんかも記録しているのですが、この記録を見てください。私がレガシィを離れている間の業績、とても良いんです。これは腹が立つね(笑)。」

経営者としては、自分がいるからこそ会社は成り立っていると思いたい。そういう意味では、自分が不在の期間は業績が下がった方が納得できる。やはり自分がいないとダメなんだ、と。現場復帰した天野は、新しく始まった家族信託などの事業にも乗り出す。すでにこのとき、レガシィはグループ六〇〇名を超える巨大グループになっていた。二〇一七年、天野と紹子が結婚四〇周年を迎える年でもあった。

そして、天野は気付いていた。この出来事は遠回しなシグナルなのだと。

未来につなぐ経営

物語はプロローグに戻る。二〇二一年十一月、天野はレガシィの代表権のすべてを大輔に譲る。天野は引退せず、会長となって大輔をサポートする道を選んだ。

天野は中途半端な権限移譲ではなく、経営の意思決定についてまで、そのすべてを大輔に譲った。本来は、徐々に権限移譲していくのが王道的な事業承継だろう。特に大輔は監査法人での経験はあるにしても、レガシィではまだ六年ほどしか経験がない。

しかし、天野に迷いはなかった。天野は事業承継をするなら、そのすべてを譲ろうと決めていた。それは、父の天野克己から事業を受け継いだとき、天野の父は自分を信じ、自由に経営をさせてくれたからだ。だから、自分の場合も大輔を信じて任せてみよう。それが天野の出した結論だった。

大輔が引き継いだ税理士法人レガシィは大きなものだ。資金、人材、顧客などどれも膨大なものであるし、率直に言って財産的価値は測れないほど大きい。しかし、大輔に引き継がれたのは財産だけではない。

天野の父、天野克己がつくり上げた税理士事務所。その父親を助けてほしいと言った天野の母親。アンダーセンから受け継いだ仕事のやり方と文化。そして天野が経営を引き継いでからの二十五年の間に生まれた価値観、考え方、想い。加えて紹子が参画してから生まれた新しい人材の価値判断や文化。こうした見えないものを引き継いだのが大輔なのである。

天野は言う。

「相続や事業承継で遺すのは、財産だけじゃない。かたちのない思い出や生き方、あり方を引き継いでいくことが、本当に『遺す』ことであり、『つなぐ』ことなんです。」

天野は二〇二二年、七〇歳を迎える。すでにレガシィは新しい世代に手渡した。一世代前であれば、すでに引退して余生を楽しんでいる年代だろう。しかし、天野は違う。自分の考えを、こうしたレガシィの精神を、ひとりでも多くの人につないでほしいと今日も動き続ける。

あなたのような、初めて「legacy」の本質に触れる人が、ひとりでも増えることを願って。

エピローグ

そして、未来に継承する

コロナ禍、ウクライナ侵攻、世の中は日々暗いニュースが飛び交っている。明るい話題が少し出たと思えば、円安、人口減少、少子化。日本を取り巻く環境は実に厳しく、常にマスメディアは暗い情報を報道する。

天野はこの状況を変えたいと真剣に考えている。ひとりでも前向きな考え方の人が増えれば、人生を積極的に生きようとする人が増えれば、より良い世の中が待っている。天野はそう心から願い、いまも情報発信を続けている。レガシィを事業承継したあと、天野がこれから取り組んでいきたい活動のひとつでもある。

人生を諦めてしまうことは簡単だ。何もかも、いますぐやめてしまえば良い。でも、生きることは辛いことばかりじゃない。天野の人生も、表面だけ削って見れば、栄華を極めた人間のように見える。しかし、職員の大量離職やバブル崩壊でできた個人の借金など、苦境を乗り越えてこそ、いまの天野やレガシィがある。

そして、いまのレガシィは天野ひとりでつくりあげたものではない。天野の両親や、紹子。そして大輔がつくり、そしてこれからもつながれていくものだ。いずれこの先、必ず大輔のあとを誰かが継ぎ、そしてまた引き継がれていく。

きっと、何十年先。仮に一〇〇年以上経ってもこれらの想いは引き継がれていくことだろう。

これが「つなぐ経営」なのだから。

税理士法人レガシィ 代表社員税理士 公認会計士 CFP 天野隆
1951年生まれ。 慶應義塾大学経済学部卒業。 アーサーアンダーセン会計事務所を経て現職。 税理士法人レガシィは、相続案件実績約5600件で日本一。

横須賀輝尚 パワーコンテンツジャパン代表取締役
よこすか・てるひさ/パワーコンテンツジャパン代表取締役、特定行政書士。
埼玉県行田市出身。士業・コンサルタントビジネスを専門領域とするコンサルタント。著作は士業マーケティングや法律実務書を中心に20冊20万部超。最新作は『会社を救うプロ士業 会社を潰すダメ士業』(さくら舎)。



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