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おばあちゃんのおひざもと 第35話 山中で
「うっかりして一番大事なものを家に忘れてきたことに、途中で気がついてさあ。おじいちゃんが江見の役場に勤めていた時に、大切な書類に印鑑が必要だって言ってたのに朝、家を出る時に印鑑を置いてったの。『これは届けてあげないと』と思ってねえ。正良がまだ学校にあがる前で、四つかそこらだったから、一緒に手をひいて連れて行かなくちゃならなかった。大人の足でサッサと歩いても1時間以上はかかるとこなのに、小さな子供と一緒だったらその倍はかかっちゃう。だからにぎりめし作って水筒にお茶入れてお弁当作用意してから家を出たの。30分近く歩いて江見へ抜ける山道を登っている時に、「あー、印鑑!!」って気がついて。家を出る前にお弁当作ったり、ついでに買ってくるもののこと考えたりしてたもんだから、肝心な印鑑の事忘れて出てきちゃった。「しまったあ」と思って。
今から正良を連れて帰ったら、もう今日中には届けられない。どうしようってしばらく悩んだ挙句、正良を近くの切り株に座らせて「いい、絶対にここから動いちゃダメだよ。お母さん、忘れ物取りに家に帰って、すぐまたここに戻ってくるから。絶対にどこにも行っちゃダメだからね。ずっとここに座ってお母さんが戻るまで待ってて。お腹空いたらこれ食べていいから。ここにずっといるんだよ。分かった」って何度も念を押して言い聞かせた後、すっ飛んで家に帰ったの。おばあちゃん走れないから急ぎ足で。印鑑をカバンに入れてまた大急ぎで戻ったら、正良、ちゃーんと言われた通りに座って待っててくれた。ホッとしたよ。もうずっと心配で気が気じゃなかったから。「お利口さんだったねー」ってそこでお弁当食べてね。
ようやく江見の役場に着いて、おじいちゃんに「はい、忘れ物。大切だって言ってたから」って印鑑渡したら、「なんだ、わざわざここまで歩いて持ってきたのか?明日でも構わなかったのに。」だって。もう腹が立つやら、がっかりやら。おじいちゃんは自転車を持ってたからスイスイ帰れるけど、おばあちゃんたちはまた歩いて帰らなくちゃならなかったでしょ。車で送ってもらえるわけじゃないし。どこに行くにも歩くしか手段がなかったから、一つ用事をするのに一日がかりになっちゃうんだよ。」
*この本は第1話から46話まで、順番に各章の最初の頭文字一音をつなげていくと、あるメッセージ明らかになります。さて、どんなメッセージでしょうか。
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かるた小説 ーおばあちゃんのおひざもとー
大正3年、1914年にアメリカに生を受け、22歳までに3度も船で太平洋を横断し日本とアメリカを行き来したおばあちゃん。ロサンゼルスの大都会…
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