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短編小説 「天井」





つらつらと、書いてます。

8000字あまりの小品です。

リンクから縦書きで読めます。
さらに下に横書きもありますので、お好みで。



https://www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?action=tachiyomi&id=2b68220204182811










    
    天井








 僕が天井になってからもう七年になる。
 猫がいなくなってからは四年ほどにはなるだろうか?
 僕には猫がいなくなったわけはいまいちよくわからないのだけれど、僕が天井になったわけならなんとなくわかる気がする。それはたぶん、この部屋から彼女がいなくなったからだと思う。
 天井になる前の僕は——立派なとは言えないかもしれないけど——とにかくふつうの人間だった。
 その頃部屋には僕と彼女が住んでいて、猫をみだしたのは彼女だった。
 彼女にはそういう力があった。

 彼女にはいろんな力があった。猫を生みだすだけではなく、あんなことやこんなことが彼女にはできた。彼女の色んな力を目の当たりにしてきたはずなのに、彼女の力に関して僕には何故か猫を生みだしたときのことしか思い出せない。それは僕が天井になってしまったからなのだろうか? うーん。
 たしかあれは僕が二十歳で、彼女が二十三歳のときだった。

 僕はいつも午後六時に帰宅して、彼女はいつもその一時間後に帰宅した。
 彼女はいつも帰宅するとすぐにベッドに横になって、そのまま二時間とくとく眠る。そしてきっかり二時間後に目を覚ますと食事をとって、キッチンで音楽をかけながら皿を洗い、浴室で音楽をかけながらシャワーを浴びる。それから午前四時にふたたび眠るまで適当に時間をつぶす。映画を見たり本を読んだり、ジグソーパズルをしたりして。そのときには音楽はかけない。彼女が音楽をかけるのは皿を洗うときとシャワーを浴びるときだけなのだ。聴くのはグランジ・ロック、パンク・ロック、ハード・ロック、フォーク・ロックと、名前にロックのつく音楽だけ。メタルもR&Bも聴かない。ロックと名のつくものにしか彼女は興味がない。何故だかは知らない。一緒にいられるうちに訊いておけば良かったかな?
 大抵の人の生活リズムがどんななのか僕は全然知らないけど、彼女のアパートに転がりこんだ当初僕は、少し驚いた。僕は一度眠ると水をぶっかけられても朝まで起きない人間だったから、世の中に彼女のようなリズムで生活する人がいるなんて思いもしなかった。
 でも彼女に言われるまでもなくそのリズムは僕にすぐ馴染なじんだ。あるいはそれも、彼女の力のひとつだったのかも。
 僕はいつも午後六時に帰宅するとすぐにシャワーを浴びて、彼女が帰ってくるまでに夕食を作る。そして彼女が帰ると一緒にベッドに入ってこつこつ眠った。きっかり二時間後に起きたら彼女と一緒に食事をとって、彼女が皿を洗うあいだ新聞を読んで、彼女がシャワーを浴びるあいだ音楽を聴いた。聴くのはテクノとかクラシックとかソウルとかR&Bとか。メタルは僕も聴かない。べつに嫌ってるわけじゃないけど、なんとなく聴かない。人間でいられるうちに聴いておけば良かったかな?

 僕はすえで彼女は長子ちようしだった。
 そのせいなのかはわからないが、彼女はいつも僕をかわいいと言った。僕には甘え上手なところもあったけれど、彼女にはかっこいいと思われたいふしがあった。
「猫みたいでかわいい」と彼女は言った。
 それはソファで彼女にひざ枕をしてもらっているときだった。僕の頭をなでる彼女の指のすきまから僕は彼女の顔を見上げて、「ライオンみたいにかっこよくなりたい」と言った。
「そうならないのは今のままでいいと思ってるからよ」
「思ってない」
「あ、でもセックスのときはライオンみたいよ」
「このっ!」
 いちゃいちゃ。
 ねえ、他人のこういう話って聞いてられないと思わない? 僕は思うね。
「猫、飼う?」
「飼いたいの?」と彼女は言った。
「いや」と僕は言った。「猫がいればかわいい担当を降りられるんじゃないかと思って」
「やっぱり今のままでいいと思ってるじゃない」と彼女は言った。「あなたが変ろうとは思わないの? それにかわいいののなにが悪いのよ?」
「うーん」
「でも、いいわね。猫がいるのも楽しそう」
「じゃあ明日にでも保健所に行こうか」と僕は言った。
「必要ないわ」
「どうして?」
 彼女は天井を指さした。
「……猫だ」と僕は言った。

 天井には猫がいた。天井にはというより、天井の中にはと言ったほうがいいかもしれない。プロジェクターで映写された映像のようにも見えるけれど、そもそも部屋にはプロジェクターなんてないし、それはたしかに本物の猫だった。猫は猫のまま、天井と同一の存在になっていた。
 僕と彼女は猫の名前を三つずつ考えた。彼女は天秤てんびんくま中尉ちゆういがいいと言った。
「どうしてみんな漢字なのさ?」と僕は訊ねた。
「漢字? 漢字じゃないわよ」と彼女は言った。
 彼女は脱衣所からメモ用紙とペンを持ってきて(脱衣所がメモ用紙とペンの定位置なのだ)、そこに「テンビン」、「クマ」、「チューイ」と書いた。
「ね?」
「たしかに。でもどれも名前っぽくないね」と僕は言った。
「そうかしら」と彼女は言った。
 僕はメモ用紙に「カート」、「ジョージ」、「リチャード」と書いた。
「どうしてみんな人みたいな名前なの?」
「人だよ。カート・コバーン、ジョージ・ハリスン、キース・リチャード」
「誰なの?」と彼女は言った。
「……じゃあ、これは? カート・ヴォネガット、ジョージ・オーウェル、リチャード・マシスン」
 彼女は首を左右に振る。
「……カート・ラッセル、ジョージ・クルーニー、リチャード・ギア」
 退屈そうにあくびをしながら彼女は猫を見上げる。
 どれも彼女の好きなものにゆかりある人物をあげたつもりだったのだけれど、当の彼女はどこ吹く風だった。彼女は作品だけを愛するタイプなのだ。
「ちゃんとあの子を見て名前をつけなきゃだめよ。あの子がカートやジョージや……んーと…」と言って彼女は、メモ用紙に目をやった。
「リチャード」と僕は言った。
「そう。あの子がカートやジョージやリチャードに見える?」
 僕は猫をみた。
「うーん。見えなくもないと思うけど。でもそれを言うなら、天秤にも熊にも中尉にも見えないよ」
 彼女は猫をみた。「そうかしら。でも、とにかくカートやリチャードや……」
「ジョージ」
「そうそう、ジョージには見えないわ。あなたは名前というものを知らなさすぎるのよ。いい? 名前らしい名前なんてぜんぜん名前にはならないのよ」
 彼女にそう言われるとたしかに僕は名前というものを知らなさすぎる気がしてきたけど——あるいはそれも彼女の力のひとつだったのかも——ともあれ僕もそのまま引き下がるわけにはいかなかった。男たるもの命名権を簡単に譲るわけにはいかないと、かの有名な歴史上の人物が言ってたわけでもないが、でもそのときばかりは僕も譲る気はなかった。
 猫の名前が天秤? 熊? 中尉?
 まったくもってカートかジョージかリチャードの方が良いに決まってる。

 僕たちはメモ用紙にあみだを描いてスタート地点に番号を振り、猫に決めさせることにした。
「彼がすこしでも紙に触れたらそこからいちばん近い番号で決まりね」と彼女は言った。
「彼? おすなの?」と僕は言った。
「そうよ。だってたまたまが二つついてるじゃない」
「たまたまが二つだと、四つになっちゃうよ」と僕は言った。
「どうだっていいわよ、そんなこと」と彼女は言った。「いいわね、いくわよ」
「あ、今モモレンジャーみたいな言い方だった」
「うるさい」
 彼女が脚立きやたつにのって天井にあみだをかざそうとしたとき、僕はあることに気がついた。
「ちょっと待って。もちろん力は使わないよね?」
「ねえちょっと。なに、疑ってるわけ?」と彼女は言った。
「疑ってないよ、もちろん」と僕は言った。「でも考えてもみてよ。もし映画やアニメみたいに超能力を使ったしるしみたいな……んー、たとえばぴかっと光ったり音が鳴ったり、そういうしるしみたいなのがあるならこんなこと確認する必要だってないけど、君のはそうじゃないだろ? いつも何のしるしもなしに執行しつこうされるんだ。現にたまたまが二つの彼を君が生みだしたときも僕は気づかなかったんだぜ?」
 彼女は眉根を寄せて脚立の二段めから僕を見下ろしていた。二段も登れば十分彼女の方が背が高いのに、僕を見下ろす彼女はいつもより子供っぽく見えて、いつも以上にキュートだった。
 それから彼女はあっさり言った。
「それもそうね」
 そして僕にあみだを手渡した。
「じゃああなたがやって」
 僕は肯いうなず た。
「そうこなくちゃ」
 そうして猫の名前は「クマ」になった。

 クマの動物としての機能は、天井と同一になったことによってクリアになったようだった。つまり彼には食事も排泄はいせつも睡眠も、一切必要がなかったのだ。睡眠にかぎっていえば僕たちが寝ているあいだは彼も寝ているような格好はしていたけれど、それは僕たちの眠りにあわせた伴奏ばんそうのようなもので、僕たちが起きると彼はすぐに起き上って背伸びをし、「にゃあ」とカーテンコール風の挨拶をしてくれた。機嫌が悪いときには起きたあとすぐに喉をごろごろ鳴らすこともあったけど、クマはめったに不機嫌な日がなかった。
 天井を見上げるといつもそこにクマはいた。それはとても素敵で、心安らぐことだった。
 でも僕はときどき、たまにはクマもこっちに下りてきてくれないものかなと思った。そしたら僕らは彼の喉を撫でてあげられるし、そしたらもっとお互いハッピーになれるのにな、と。
 そのことを彼女に話すと、「それはできないのよ」と彼女は言った。
 彼女が言うには、クマは天井と同一になればこそ存在することができるらしい。クマは正確な分類上では命に含まれないのだそうだ。そして命を作りだせるのは神さまだけなのだと彼女は言った。
 それを聞いて僕は「でもクマはちゃんと生きているし、その生きているクマを生みだしたのは君だよ」と言った。
 すると彼女は「もしクマをあそこから出してしまったら、天井もなくなってしまうの。天井がないと私たちは困るでしょう?」と言った。
「うん」と僕は言って、肯いた。
「それに天井がなくなると結局はクマもいなくなってしまうのよ」
「かなしいね」
「……ごめんなさい、混乱させて。クマには命はないけれど、たしかにあなたの言うようにクマはちゃんと生きているわ。あなたを喜ばせようと思ってすこし危ない橋を渡っちゃったのよ。こんな風に力を使うのはよくないことなんだけど、でも後悔はしてないわ。私は幸せよ。あなたとクマと一緒にいられるだけで」
 僕たちはソファの上で抱きあってキスをした。僕は生まれてはじめてちゃんと息ができたような気がした。世界がとても柔かくなるようなキスだった。とても魔法のようだった。それが彼女の力によるものなのかどうか僕にはよくわからなかったが、彼女に力なんかなくたって、僕は彼女が好きだった。もちろんクマのことも。
 その日僕たちはソファで抱きあったまま眠った。

 ある日突然彼女はいなくなった。
 僕がいつものように買物をすませて午後六時に部屋に帰ると、彼女の物が部屋から消えていた。冷蔵庫もソファもテレビも電子レンジもテーブルもカーテンも、彼女の物と呼べるすべてのものがなくなっていた。クマはめずらしく、喉をごろごろと鳴らしていた。
 彼女も彼女の物もなくなってしまうと部屋はほとんど空っぽになった。ここはもともと彼女の部屋だったから、当然といえば当然だった。残ったのはフライパンとギターとT字カミソリと釣り竿と文庫本が数冊。包丁まで彼女の物だったことに気づいたときには妙に感心してしまった。それこそ魔法のように急に消えてしまったのに、なぜか僕にはそれが彼女の力のせいには思えなかった。
 僕は部屋のまん中にうずくまって眠った。ベッドがないからそうしたのだけれど、もしベッドがあったとしても同じことをしたように思う。
 それから来る日も来る日も彼女の夢をみた。
 時間の伸びる音が聴こえるようになった。時間は伸びれば伸びるほど残酷な音を鳴らしていた。ひび割れた音。途切れ途切れで乾いた音。不安を肌に塗りこむような音。
 僕は毎日床に寝そべって、クマを見てすごした。そしてたまにはこっちに下りてきてくれないかな、と思った。クマは耳に入れても痛くないほど優しい声でないていた。それで余計にかなしくなった。
 ある夜に床に寝そべってうとうとしていると、ギターの弦に虫でもぶつかったようなとても小さな音がして、僕は目を覚ました。
 たぶん四弦の音だな、と僕は思った。
 目を開けても何も見えなかった。四弦(おそらく)の音は僕の目が暗闇に慣れたころには消えていた。部屋には音の余韻だけが静寂へとかたちを変えて残っていて、僕の胸の上ではクマがうずくまっていた。
 にゃあ。
 僕は彼をぎゅっと抱きしめた。あんまり力をいれすぎて彼の骨を折ってしまわないようにするのに、できるだけ強くならないようにするのに苦労した。
 天井に匂いがないのと同じように、クマには匂いがなかった。でも僕には彼の匂いのようなものを感じとることができたからそれも一緒に抱きしめた。
 部屋は僕の真下にあった。クマが僕のところに下りてきてくれたのではなくて僕がクマのところに上ったのだとわかると、なんだか可笑おかしくってしばらく笑ってしまった。僕が笑いだすとクマはびっくりして胸から飛びおり、僕の肩に頭を擦りつけた。
 クマはいつも僕の胸の上にいて、僕はいつもクマを撫でていた。
 もう長いあいだ彼女の夢は見ていない。


 僕が天井になってからもう八年になる。


                    終り

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