つらつらつら
昨日の夜、
「今年は大阪万博だから、大阪市内でゲリラ・移動Tシャツ屋さんをしたらどうだろう」ということを思い立ってしまい、想像を膨らませていたら眠れなくなって気づけば午前4時を回ろうとしていた。朝だった。
今朝は昨日電車で出会ったおじいちゃんが泊まっているホテルに、朝ごはんだけ食べに行く予定にしていた。食べた後は、そのままそこで作業もさせてもらおうと思っていた。
おじいちゃんとは、昨日、高雄駅から屏東駅へ向かう電車の中で出会った。出発前の車内で、見知らぬ台湾人の方から台湾の言葉で何かを聞かれ、「てぃんぶーとん、てぃんぶーとん(わからん、わからん)」と言っていたら、近くに座っていたおじいちゃんが対応してくれた。見知らぬ人がその場を去った後、わたしはおじいちゃんに謝謝の気持ちで軽く会釈すると、「どこから来たの?」みたいなことをこの国の言葉で聞かれた。「りーべん(日本)」と答えると、「あれっ、日本人!」と日本語で返された。
日本語そんなに上手じゃないというそのおじいちゃんと、この後すべて日本語でコミュニケーションを取った。
そのおじいちゃんは今は退職し、株(トレード?)と年金で暮らしていると言っていた。火曜から金曜は株をしながら(日本語あってる?)台湾のいろんなところを転々と周り、金曜から月曜は宿が高いから台北の自宅で過ごすとのことだった。一般的にいわれている、悠々自適な老後のお手本かなと思った。
わたしが屏東に行くというと、「え?屏東?何しに行くの?僕はね、そこはよく行きますよ。これから屏東にズボンを直しに行きます」という。台北に住んでいて、どうして屏東でズボンを直すことになったんだろう。時間距離的に東京と大阪くらい離れているのに。台北で直せば120元、こっちは60元と言っていたが、それでも屏東にはならんやろうと思いながら30分の電車を一緒に過ごした。
屏東は客家のまちだと聞いていたから、どんなものかと気になっていた。客家料理が塩辛いということはどこかで聞いてた。だからおじいちゃんに、「一緒に屏東でお昼を食べよう、美味しいところを知ってる」と言われて嬉しくてついていった。前だったら海外でその場で会った人についていくとなると躊躇したり、不安に思ったりしたんだろうけど、今はラッキーと思える。大丈夫な人とそうでない人の見分けは、たぶんちゃんとつくようになったと思う。これは過信かしら。
連れて行ってもらった食堂は、おじいちゃんが言うには客家系ではないとのことだった。でもローソンが乗ったご飯も、大根とセロリのスープも、アヒルの肉もみんな美味しかった。青菜の炒め物はかなりニンニクが効いていて、中国のお宅で食べさせてもらった炒め物を思い出させるものだった。たくさんの料理を、すっかりご馳走になった。お礼を言うと、「1人だとね、いっぱいで食べられないんですよ」というおじいちゃん。それは私も同感だったが、そう返してくれる心遣いにより一層感謝した。
食べた後はおじいちゃんのズボンを直しに不思議な形の建物の市場へ向かった。台北在住の人がどうすればここを見つけられるのか分からないけど、閑散とした市場の中で、その仕立て屋さんだけはおばちゃん達の溜まり場になっていた。そういえば、おじいちゃんは知らない駅に降り立った後、必ず地元の人に伝統市場の場所を聞いてそこにいくと話していた。ここは「中央市場」。たぶん初めて屏東に来た時、ここに来たんだろう。
ズボンを回収した後、屏東で解散かと思いきや、このまま一緒に鳳山駅に行こうと言われた。こういう場合は流れに身を任せた方が面白いとこの4ヶ月で学んだので、一緒に行くことにした。しかし鳳山駅、何があるんだろう。気にも留めていなかったなと思う横で、「私、行くの初めてなんですよね!案内、お願いしますね!」と嬉々と言われた。
結果、鳳山は堪能できなかった。延々と歩けばきっと面白い部分は垣間見れただろうが、着いた時には4時を回っていたし、割と大きな荷物を持った、つっかけの67歳の方をそこまで歩かせるのも酷だったので早々と高雄へ帰ることにした。高雄の、おじいちゃんが泊まっているホテルの近くに、美味しい牛肉麺の店があるとのことで、そこで夜ご飯を一緒に食べようという話になった。
移動の時だったか、ご飯を食べている時だったかの会話。
「両親はいくつくらいなの?仕事はもう退職されたの?」
「いくつくらいで、自営業です。だから死ぬまで仕事をしていると思います。」
「その方がいいね、だって、退職した後、ぽくっといっちゃったりするもんね。」
台湾もそうなのか、と思った。というかこういう会話って、海外でもするんだ。それにしてもその言語表現ができるって、日本語ペラペラやないか。
しかし、ネパールでは二言目に聞かれていた「結婚してるの?」はさすがに聞かれない。それだけあの国では家族関係が大事だということがよく分かる。自分が何をしているのか、何を生業にしているのかに重きが置かれるところに帰ってきたんだなと思う。
おじいちゃんは、昔ホテルで働いていたらしく、初めは荷物運びだったところからのちにマネージャーになったと言っていた。(マネージャー=支配人と解釈した。)身体を壊して早期退職し、今の生活だという。株は平日の9時からお昼頃まで毎日やって、1日に1〜2万円ほど稼いでいるようだった。
「もうすぐ春節ですが、嫌ですね!だって株がおやすみですることないですもん!どこいっても人が多いからずっと家です」と言っていたのはかなり面白かった。
株はゲームみたいにやってると言っていて、お金も入るし、たぶん楽しくやってるんだろうなと思った。一方で、お金と時間の使い道がないのかなとも感じた。いや、大きなお世話か、これは社会経験の少ない小娘ゆえの阿呆な感想か。
わたしが仮に67歳まで生きれたとして、どうしてるだろう。絵や漫画を描いててほしいと思うのは、今の自分のエゴかもな。そんなこと言ってられず、普通に生活もままならなくなってるかもしれない。その時の自分の大事なものを大事にして、楽しくしててくれていたら一番なんだけどなと思うのは、あまりにも考えなしか。
その晩、おじいちゃんがホテルの朝食券をくれた。「2人分あるから、明日空いてたら食べに来たらいいよ」とのこと。ありがたくいただいた。
おじいちゃんのホテルとわたしのドミトリーは3駅ほど離れていて、おじいちゃんがわたしの宿の方向にあるマッサージ屋さんにいくからと、一緒に3駅分歩いた。その間、いろんな話をしたと思うが、「ガソリンスタンドはほぼ必ずトイレがあるから、歩き回るなら覚えておくといい」というアドバイスくらいしか覚えていない。
歩きながら、この旅を振り返って、わたしは「寅さん」になれた気がして嬉しくなっていた。「男はつらいよ」を親の影響で何周も見ているわたしは、気づいていなかったが、たぶん小さい頃から寅さんに憧れていた。旅から旅へ、現地の人に会い、仲良くなって、図々しくもお世話になる。マドンナに恋をしたり、実家を巻き込んだり、現地で商売こそしなかったものの、寅さんに一歩近づけた気がした。
近づいて感じたことがある。映画を見ているわたしたちには、現地の人たちにとって寅さんが図々しく映るのかもしれないが、たぶん図々しくない。なぜならひょんなことから見ず知らずの人と一緒にお話したり行動したりできる人は、そういうある種のハプニングみたいなものに耐性がある、もしくはそういうことが好きなのだと感じたからだ。少なくとも、わたしがこの4ヶ月であった人たちはそうだったと思う。そういう人たちに対して、こちらが過度に申し訳なさそうにしたり、気を遣いすぎること(わたしはこれをやりがちなのだ)はむしろ失礼で、ちょっと無遠慮に見えるくらいがちょうど良いのだと思った。相手にとっても、寅さんのように振る舞うのがきっと最適解なのだ。寅さんは天然でやっているように見えるけど、どこかで道化師のように振る舞っていたんじゃないかしらと思う。
まあ寅さんは映画の一登場人物であり、演出されたキャラクターなので、本当に寅さんのように振る舞うのは厳しいのだが、なんだかそういう感じのことを思った。
今朝、冒頭で書いた夜を超え、8時に起きた。パソコンを背負ってホテルへ向かい、おじいちゃんと一緒に朝ごはんを食べた。その後おじいちゃんは株、わたしはパソコン作業をそれぞれ黙々と行い、12:00ごろおじいちゃんは台北に帰った。
もう現地でのお別れはないだろうと思っていたのに、滑り込みでやってきたお別れだった。旅、終わるなあと思いつつ目の前の現実に向かう。
あと少しだけつらつらする。
先月の中頃にネパールで何かに罹って高熱を出し、熱が下がってまもなく驚くほど寒い中国で2週間を過ごし、とても暖かい台湾に来た。その影響と思いたいが、咳と鼻水が治らないまま1ヶ月を迎えようとしている。軽いので何とも思っていなかったが、おじいちゃんとお別れしたあと、ホテルのティッシュで鼻を噛むと左耳が変になって、大きなめまいがした。初めての経験だった。たぶん三半規管のあたりがどうにかなったのだと思った。それはすぐ良くなったが、それからなんだか頭もぼんやりして、ふらふらする。昨日、4時間しか寝ていないのもあるかもな。とにかく帰ることにした。
帰ったら10日遅れの生理がやってきて、なおぐったりした。今日はもう眠ろうと思いながら、昼に頭がふらふらしていたのが気になり、眠ったら次起きられないのではないかという変な不安がよぎった。こういう時に限って、フロントもない無人のドミ。わたしが何かおかしい動きをしても誰も助けられない。その都市最安のドミはやはり取るべきではないのかもしれないと学習する。
なので、ぼんやりする頭でYouTubeを見たりしていた。そして突然、何かの拍子に、ある人のことを思い出した。ある人のことは公表しないが、学校の同級生だ。
なぜ急に思い出したのか、たぶん、昼の大きなめまいのせいだと思おう。その人はとても面白かった。クラスでは目立たないけど、芯があって(そう見えていただけなのかもしれない)、漫画が好きな人だった。私はその人と漫画の話をよくした。その人にはもう一つ好きなものがあったけど、これは伏せておく。
今どうしてるんだろうと思って、普段ならそんなことしないのに、興味本位でフルネームで検索をかけてみた。理系大学へ行ったから、もしかしたら大学の論文とか出てくるのかなとかそういうことを想像して、表示された検索結果を見た。
トップに出てきたのは、論文でもなく、大学のサークルでもなく、その人の名前のnoteだった。その次にヒットしたのは、その人が過去に〇〇にエントリーした記録だった(〇〇は日本人みんなが知ってると思われる大会。伏せる)。
衝撃だった。noteの写真をクリックして拡大して見た。間違いなく本人だった。
そうか、この人は好きなものの方面に行ったんだ、と興奮じみたような、不思議な感情になった。
側から見れば気持ちの悪いことは承知の上で、noteはほぼ全て読んだ。3年ほど前から不定期でまあまあの数を投稿していた。その日思ってたこととか、やったこととか、つらつらと書かれていた。noteを始めた頃には、すでにその人の興味がある方へ舵を切っていたらしく、3年前の自分を思い出し、わたしがこういう道にきたのはやはり少し遅かったのかなとか思ったりした。
そのnoteを読んで、何か触発されて黙々と書いたのがこれである。その時何を思っていたのか、この旅の中でも一時期書いていたけど、最近書いていなかった。誰かに見てもらう必要があるかはさておき、残しておきたいと思って、意気込んで書いている。
この2日で思ったことは、旅は物理的におもしろい出会いを持ってきてくれるし、頭の中にぽっと懐かしい出会いも持ってきてくれる。すばらしきかな!ということである。