短編小説 『白くまのいる丘』
あの丘のてっぺんには白くまがいるんだって。
そんな嘘を信じたのは、もうずっと昔のことだ。子供の頃、よく幼稚園の帰りに家の近くの公園に連れていかれていた。近所に住んでいる友だちも一緒で、お母さんたちが井戸端会議をしている間、わたしたち子どもは遊具なんかで遊んでいた。今思えば、アレは利害がぴったり一致した行動だったのだ。親たちは子どもの面倒から解放された時間を少しでも得ることができる一方で、元気な子どもたちは心ゆくまで遊ぶことができる。
振り返れば、幼くて、柔らかくて、ふと思い出した瞬間に胸を締め付けるような日々。そんな中で、もう誰だか忘れてしまった友だちの一人が、突然わたしにそう教えたんだ。
その公園は、遊具のある広場の後ろに少し小高い丘がある。その丘は山みたいに大きな木がうっそうと生えている一方で、片側は切り立った斜面になっていた。幼稚園児が斜面を登ったり下ったりして肝試しをするのに丁度いい遊び場だったのだ。一応整備されている所もあって、他にどう呼べばいいかわからないから階段と呼称するようなお粗末な人工の段差があった。そしてその丘のてっぺんには、どうしてそんなところに作ったのかわからない東屋がぽつねんと佇んでいた。屋根の下に、四角い木のテーブルとそれを囲んでコの字型にベンチがあるだけの、たいへん質素な東屋だ。背の高い木が周りを囲んでいるからお世辞にも見晴らしがいいとは言えないし、当たり前だが蚊やら蜂やら虫もたくさん出る。
そこに白くまがいるらしいのだ。
なんてばかばかしい。言う方も馬鹿だが、信じる方も相当あほだ。
しかしそんなあほで、常軌を逸して恐がりだったわたしはその可愛い嘘を信じた。おかげで丘に登って遊べなくなってしまった。正直白くまがいるからなんだという話なのだけど。熊ならわからないこともないかもしれないが、なんで白くまなんだ。普通の熊だって近所に出たって聞いたことないけど。白い方が特別感があるのか。
でもあのときは、そこに白くまがいるかもと考えただけでひたすら恐ろしかった。
そういう経緯があり、わたしは小さいときの些細な思い込みが原因で近所の公園にある丘に近づかなくなっていた。本当に、なぜ信じたのかもわからないけれど、子どもの頃に怖いと思ったことはずっと覚えているものなのだ。そういえば、小学生の頃につかれた別の嘘も長いこと信じていた。その嘘はやっぱりその公園にまつわる怪談もどきなんだけど、なんと公園の遊具のてっぺんに赤い光が灯るらしい。その光を見たら死ぬ、なんて可愛らしい信憑性のカケラもない冗談だったけど、これまたわたしは信じてしまった。なぜ信じるんだ。ピュアの権化かと、今のわたしの立場からならドロップキックをかましたい。しかもその嘘、光の出現する時間は夕方の6時らしい。そんな時間に光なんて、周囲が明るく過ぎて見えないよね。大方子どもに早く帰宅させたい親が脅し目的で話を作ったが効き目はなく、むしろ子どもは面白がって誇張して周囲に話を広めたのだろう。そして無関係なわたしが怯えたと。迷惑極まりないことである。
大きな叫び声がする。
ぼんやりと子どもの頃を思い出していたわたしは、その声によって現実に引き戻された。最近近所に子育て支援センターができたから、4時以降は小学生が少しうるさい。外で遊んでいるんだ。別に苦情を言いに行ったりはしないけど。なんで子どもってあんなに叫ぶんだろう。一昨年まで通っていたはずなのに、そんな理由は忘れてしまった。
文句を言うわけでもなく、窓の外を覗いてみる。わたしの部屋からは子ども達は見えない。その代わり、自転車の荷台に大きなボストンバッグを括り付けた中学生が通っていくのを見つけて、意味もなくぎくりとした。
悪いことではないのよとお母さんは言ってくれた。お父さんも、叱らなかった。それでも二年生になってから教室に入れなくなって、やっぱりわたしが悪いと思うんだ。
ものすごい勢いで遠くに消えていく青いジャージを見送ってから、まだ明るいけどきっちりとカーテンを閉めた。
しばらく部屋で漫画を読んで過ごしていると、家が軋む音がした。ぐん、という張り詰めた音とともにわたしの気分も緊張する。鈴の音が下の階から聞こえてくる。ただいまというお母さんの声がして、わたしは漫画を閉じて部屋を出た。
下に行くと、スーパーの袋を冷蔵庫の前に置いて、お母さんは台所に立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。ご飯食べた? 晩御飯はお魚だからね」
曖昧に返事をすれば、お母さんはすぐにわたしから目線を離してまな板に向かった。別にきつい口調でもなんでもないけど、いたたまれなくなって部屋に戻った。
ラグの上に座り漫画の続きを開く。話題の少年漫画だ。ひたすらに努力し、前に進み続ける主人公や登場人物たち。白熱した絵とセリフで、読んでる最中はとても面白い。
だけど。
顔を上げて締め切ったカーテンを見上げる。日は沈んだのか外の光は見えない。
わたしは彼らみたいに頑張れないから。
たいして何もしていないし、なんでかわからないけど疲れて寝てしまったようだった。お母さんのご飯できたよという、リビングからの大きな声で目を覚ます。急いで返事をして時計を確認すればもう八時。慌てて階段を駆け下りた。
下に行くとお父さんも帰ってきていた。一足先に食べ始めていたお父さんは、ちらりとわたしを見てからただいまと言った。わたしも小声でおかえりと返してから、ご飯をついているお母さんのところへ行く。お母さんがご飯を持ってくれたお茶碗とお箸を持って、わたしもテーブルにつく。
すぐにお母さんもご飯と魚を持ってきて、お父さんの隣、わたしの向かい側に座った。
いただきますをして食べ始めてから少しして、お父さんがわたしに話しかける。
「まな。今日は何をした?」
お父さんはいつもこう聞く。学校に行かなくなってから、責めない代わりに必ずその日にやったことの報告を促す。勉強だけは遅れるなということだ。その言い方からはいらだちは見えない。だけどやっぱり、苦しい気がする。
「数学の問題集10ページと、あと英語」
そうかという返事の後に沈黙が降りる。他に何も話すことはなく食べ終わった。
次の日、朝起きるとお父さんはもう出勤していた。お母さんも仕事に行く準備をしながらわたしの方は見ずに話しかける。
「おはよう。ご飯適当に食べてね。約束したところはちゃんとするんだよ」
「うん。いってらっしゃい」
行ってきますと言う声が、玄関の扉が閉まる音とともに消えた。あそこが閉じてしまえば、もうわたしに干渉してくるものはない。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、食器棚から白いお皿とスプーンを持ってくる。食卓の端に置いてあるコーンフレークをお皿に出して牛乳をかけた。そのままテレビの前に移動して、食べながら適当な番組を見た。
しばらくして食べ終わると、テレビを決して、流しにお皿を持って行った。部屋に上がって、約束した通りに机に向かう。別に勉強が嫌いなわけじゃない。先生だって、特別分かりやすいわけじゃないけど、怖くて嫌なわけでもなかった。
今日は地理の教科書を読んでいる。予定のところを読み終わったら、ワークの問題を解かなくてはいけない。きちんと教科書の大事そうな場所にマーカーで線を引きながら読む。
わたしが勉強しているところは、同じクラスの友達のアスカが「今日やったところ」と毎日LINEで教えてくれている範囲だ。クラスに入れなくなってから、2ヶ月近くたつ。それでもアスカは毎日送ってくれる。申し訳なさを感じつつも甘えている自覚はあった。範囲のメッセージにありがとうと打てば、いつも「きにするな!」と変なキャラが笑顔で親指を立てているスタンプが送られてくるという流れが習慣化していた。
昨日のやりとりを見てから、考える。学校に不満なんて、多分ないのに。勉強もわかるし、友達もいる。アスカは入学した時に同じクラスになってからずっと仲良しだ。家が少し遠いからあんまり頻繁にはお邪魔できないんだけど、何度かお互いの家で遊んだことがある。
ならどうして。わからない。どうしても、校門と靴箱、階段や教室といった学校の様子を思い浮かべると足がすくんでいけない。
無意識にため息をついていた。シャーペンを放って、天井を見る。
どうして。
答えが出ない疑問に呑み込まれそうになった時、家の裏のマンションから自転車を出す音が聞こえた。スタンドを蹴りあげる音が、わたしの意識を外に向けた。
連鎖するように、どうしてかわからないことが起こった。理由なんてないけど、わたしはなんとなく服を着替えて玄関に向かった。七分のジーパンにオレンジ色のパーカー。久しぶりに玄関の鍵を自分でかける。黒くて重いドアを閉じて振り向けば、外は白く眩しかった。
鍵をポケットに入れて歩き出す。庭の木の葉が、こんなに鮮やかな緑になっていることに気付かなかった。太陽は強く、じりじりと皮膚を焼かれ、日焼け止めを塗っていないことを後悔する。
アスファルトが熱く揺らぐ。本格的に夏がやってき始めていた。もしかして聞こえているのは蝉の声じゃないだろうか。ずっと部屋にいたし、まだ数が少ないからすぐには気付けなかった。
キョロキョロとあたりを見回しながら道を行く。真昼間。誰かに会ったりしないだろうか。こっちの通りは人が多いかもと不安に駆られつつも、わたしは無意識に行くところを決めていた。
昨日、思い出した公園。本当に近所で、坂を上っていけば徒歩十分ほどだ。あの場所に行く。
今日、わたしは白くまを見に行くんだ。
思った以上に気温が高く、公園に続く坂を上り切ったときには汗だくだった。運動不足を実感する。
そう言えば体育以外に運動なんてしないから、それに出席しなければ運動は皆無だ。いい天気だしと思ったが、天気の悪い日にしたほうがよかったかもしれない。最悪これは熱中症になってしまうと考えながら歩いていると、なんとか公園の入り口までたどり着いた。
何台か車の止まっている駐車場を横切り、広場の方へと進んでいく。遊具では幼児が遊んでいた。少し身構えるが、努めて平然と通路を歩いて丘へと向かう。聞こえてくる子どもの声に、かすかに圧迫感を抱く。しかしせっかくここまでやって来たのだ。引き返せない。
幸い、丘の斜面を滑り降りて遊んでいる小さい子はいなかった。最近の子はみんな遊具派らしい。土まみれで転げ落ちるの、楽しいのにな。
真下まで来て丘を見上げる。白くまがいるらしい東家は、ここからは見えなかった。木が多いからか、蝉の声が大きくなっている気がした。子どもの頃とは違って段差を上っていく。階段なんて立派なものじゃない、土嚢が段々に積まれた斜面。こんなのむしろ上りにくいのではと、伝う汗が気持ち悪くて内心悪態をついた。
大したことのないちいさな小山だ。すぐに東屋が見えた。何も変わっていない。少しぼろくなったくらいか。
そしてわたしは、最後の段を上ってから、その場に呆然と立ち尽くした。
日光がキラキラと葉っぱの間から降ってきている東屋の下。小豆色のベンチには、白くまがもっそりと座っていたのだ。
それはゆっくりとこっちを向いた。驚いて何もできない。じいっと黒い小さな目で見つめられるが、何を訴えているのかわからない。
そんなわたしの様子なんて一切関係ないというかのように、白いくまはおもむろに口を開いた。
「最近、暑くなるの早くない? もう一年中夏だよね」
口を開いたことがすでにおかしいのだ。そう理解するのに五拍は必要とするくらい、流暢に喋った。なおも突っ立ているわたしにさらに話しかける。
「ていうかそこ暑いでしょ。こっちきなよ。陰になってるから。多少は涼しいと思うよ」
なんと白くまに相席を進められてしまった。思考が停止しているわたしは、何も抵抗することなく隣に座る。その様子を、白くまはうんうんと満足げに見ていた。
ベンチは古いせいか、ズボン越しでも少しチクチクした。そんな木本来の感触を存分に感じながら、丘を駆けるぬるい風に吹かれる。ちらりと横を盗み見れば、くまは何をするでもなく、大きな手を足の間に揃えて気持ちよさそうに座っていた。
しばらく二人とも何も喋らなかった。子どもたちの笑い声と、蝉の鳴き声だけが混ざり合っている。時間が経つにつれて白くまに慣れてきたから、少し長めに観察し始めた。なんというか、白くまと言われて思い描く通りの白くまだ。毛並みはテレビでよく見るような、茶色く汚れて残念な感じになんてなっていない。純白のもふもふしたくまさんだ。
「どうしたの、何かついてる?」
あ、葉っぱ?とわたしの視線が気になった白くまが自分の背中を振り返る。じろじろ見すぎたようだ。白くま相手とはいえ不作法だったと少し慌てる。
「ごめんなさい。あの、本当にこの丘に白くまがいたんだと思って……」
謝ると、白くまはわたしをまたじっと見た。敵意はない。この感覚は知っているような気がした。不思議とこの不可解な存在を、怖いとは思わなかった。
「いるさ。白くまなんて、どこにでもね」
信じがたいことを、なんでもないふうに言い切った白くまは、また視線を正面に戻して遊具のある方を眺めていた。
白くまはどこにでもいるらしい。わたしは白くまなんて、動物園でも見たことないのに。
訳がわからなかったが、これ以上何か言うような気にはなれず、白くまの見ている方にわたしも視線を向けた。木々に遮られて何も見えないが、子どもたちの楽しそうな声は届いてきた。
どれほどかは分からないが時間がたって、近所の小学校のチャイムが聞こえてくる。はっとして顔を上げれば、白くまは穏やかに話しかけてきた。
「帰るのかい」
「うん」
立ち上がり、白くまの正面に立つ。くまは真っ直ぐにわたしを見た。
「……明日も来ていい?」
「公園だからね。誰のものでもないさ。もちろん、明日も僕はここにいるよ」
小さな目が細くなる。白くまが笑っているんだとわかった。
家に帰ると、久しぶりに外に出たせいか、頭が少し痛かった。冷蔵庫からボトルを取り出して、麦茶をコップに注いで一気に飲み干す。冷たいお茶が喉を通っていく感覚はリアルだ。あの白くまは夢ではない。
部屋にあがって、机に向かう。やりかけだった地理の問題集を再開した。
夕方になって、仕事からお母さんが帰って来た。いつも通りに呼ばれてからリビングに行く。降りて来たわたしを見て、お母さんは少し驚いた顔をした。そういえば、公園に行くのに着替えたままだった。くたくたの部屋着を外に行ける服に着替えたのも久しぶりだったなと、なんでもないように話し続けるお母さんを見て思い出した。
次の日、昨日と同じくらいの時間にまた公園に行った。そこにはやっぱり白くまがいた。昨日よりも曇り空で、日差しが弱くてわたしにとっては快適だった。それは白くまにとっても同じだったようで、しっとりとした風が吹くたびに気持ちよさそうに目を細めていた。
そのまた次の日も行った。東屋の屋根は古くても機能していて、作り出す影の恩恵は大きかった。何日か通い、気付けば公園までの道のりで人目を気にすることはなくなっていた。
夏が、近づいてくる。蝉の声は日に日に大きくなってきたのを肌で感じる。
最初はお昼前に一時間ほど通っていたが、だんだん長くそこにいるようになっていた。別に何かするわけではない。白くまは話しかけてくることも滅多にないし、わたしも特に声をかけることはなかった。
それでも。くまはぽつりと蝉の鳴き声の違いをわたしに教えたし、すぐそばを流れる小川に住んでいたえびがもういなくなったことを教えた。蝉の種類は知っていたからわたしも自信を持って答えたけど、エビがいなくなっていることは知らなかった。あの小川はわたしも子どもの頃によく遊んだところだ。住んでる生き物が少なくなっていたなんてショックだ。実は、ここに通ううちに小川が網で覆われていることには気づいていた。昔は網なんて掛かっていなかったために、何となく物悲しい気持ちになる。
今日は初めて公園にお昼ご飯を持っていった。お母さんが用意してくれていたサンドイッチを、家にあったお弁当箱に詰めたのだ。
お弁当箱を使うのは久しぶりだった。学校に行っていたときは毎日使っていたのに。棚の、一番取り出しやすいところにしまってあったそれを手に取って、少しだけ胸が痛かった。
どうしてか、わからないけど。
公園に行けば、白くまはいつも丘の上のベンチに座っている。そこから動いたところを見たことはなかった。丘を登って、隣に座る。何も言われなかった。
今日は課題も持ってきたから、大きなカバンを手に提げて来た。白くまはそれに気づいたのか、声をかけてくる。
「それはなんだい」
「勉強道具。今日はここでしようと思って。あと、お弁当」
お弁当という単語を拾って、白くまは目を輝かせた。輝かせたように見えた。まだ早いかなと思うが、座ってすぐに東屋のテーブルにカバンを置き、お弁当を取り出した。
普段、わたしに特に興味を示さない白くまが身を乗り出してお弁当箱を見る。
「……食べる?」
「ありがとう!」
遠慮する様子を一切見せずにお礼をいわれて、撤回はできなくなった。はやすぎるお昼ご飯だが仕方ない。ウェットティッシュを一枚取り出して手を拭き、たまごサンドをあげてみた。
白くまはおいしそうにそれを食べた。こんなものも食べられるんだと思うが何も言わない。あんまりお腹が空いていなかったけれど、わたしもハムサンドを頬張る。風が気持ちいい。外で食べるのもたまには悪くないなと思いながら、残りは白くまにあげた。とても喜んでいたから、いいことにしよう。
その後きちんと課題は終わらせてから家に帰った。お母さんが仕事から帰ってきて、お帰りを言ってから読みかけの漫画を読む。すると突然お母さんが部屋に来た。お母さんもお父さんも、普段わたしの部屋に入ってくることはあまりないから少し驚く。
何かしてしまっただろうか。学校から何か言われたのかな。今日は電話はかかってきてなかったけど。嫌なことばかり考えて身構える。
お母さんの表情はよくわからなかったけど、怒っているようではなかった。何を言われるのか待っていると、意を決したように口を開かれる。
「今日、お弁当箱使った?」
それを聞いて、まずかったなと反射的に思った。疲れたから後でしようと思って洗うのを忘れていた。
「うん。ごめん。洗うの忘れてた」
「それは別にいいんだけど」
言いづらそうにわたしの顔を見る。何か他にあるんだろうか。
「まな、最近お昼にどこかに行ってる?」
昼の間、両親は仕事だ。わたししか家にいない。学校に行ってない間、何をしているのかきっと不安なんだろう。なんでこんなことに気付かなかったのか。ずっと家にこもっていたわたしが外に出た様子を見せれば、気になるのは当然なのに。
「公園に行ってるの。外で本読んだり。今日は天気が良かったから、サンドイッチも持っていったんだ」
包み隠さず話せば、お母さんは納得したようだった。流石に白くまのことは話せないけど。特に何も言われることなく、安心したような顔を向けられる。
「そっか。気分転換にいいよね。今日はまなの好きなポトフだよ。もうすぐできるから、降りておいでね」
ゆっくりと音を立てずにドアを閉めて、お母さんは出ていった。なんだか、自分の想像力が足りなかったことを思い知らされた。
次の日は、ふりかけのおにぎりを作って持って行った。二つ作ったから、ひとつは白くまにあげた。やっぱりくまはもりもりと食べた。美味しいと言ってくれたから、少しこそばゆいけど嬉しかった。
食べながら、汗がじんわりと背を濡らす。だいぶん暑くなってきた。ざわざわと頭の上で揺れる木々の影も、入道雲みたいに大きい。
夏がやってきている。
ゆっくりと目を開ける。カーテンの隙間から入って来る光はすでに強い。ベッドから起き上がり、スマホの画面を確認すれば九時前だ。そのままスリッパをはいて、リビングへと降りた。顔を洗って服を着替える。お母さんが用意してくれた朝ごはんを食べてから、教科書と本、筆箱、それからお昼ご飯の菓子パンをリュックに詰めた。
少し考えてから、戸棚を開ける。わたしの水筒がひっそりと立っていた。それを出してかるく水でゆすいでから、冷蔵庫にあったお茶を入れた。
いつも通りに公園へ行く。白くまはただ座っているだけだ。わたしが階段を上って来たのを見つけると、少しだけこっちを向いて手を上げる。わたしも小さく手を振り返す。
白くまの隣に座って、東屋のテーブルに教材を出して勉強を始める。これだけはやらないと後からねちねち叱られるのだ。やっぱり暑くて、すぐにお茶をリュックから取り出した。白くまはただ何をするでもなく、東屋にいる。
昼になって、菓子パンを食べようと取り出した。小さなケーキがいくつか入っているやつだったから、一つ白くまにもあげた。くまは両手でそれを受け取って美味しそうに食べていた。
課題が終わったら本を読んだ。久しぶりに本棚から出してきたものだ。最近は漫画ばっかりで、めっきり本を読まなくなっていた。この本は小学生の頃に図書館でかりて読んで、とても気に入ったから欲しいとねだって買ってもらったものだった。今読むと、文章も内容もやっぱり子どもっぽい。それでも、大好きで何度も読み返していた記憶が蘇る。
風が吹いて、木々が揺れた。すっと、胸の隙間にあったほこりみたいなものが吹き飛ばされたような気がする。そのまま風は、公園の向こう側の小学校の声も運んできた。ここに来てからずいぶん時間が経っていたようで、もう下校時刻らしい。黄色い帽子の小学生が、ひよこのように列をなして歩いているのが遠くにちらちらと見えた。
何かは分からない。なぜかもわからない。でも、唐突に湧きあがる。
「……明日、行こうかな」
学校。ぽつりと呟いてみる。声に出してみると、さっきまであった余計なものがなくなったようだった。風が小さな迷いを払い除けるように、また駆けていく。
突然、視界が白く覆われた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、隣に座っていた白くまがわたしを抱きしめているのだと理解する。もふもふした毛並みはぬいぐるみのようだった。やっぱり本物のくまじゃないんだなと思いつつ、わたしもそっとくまの背に触る。毛並みは小さい頃に大事にしていたぬいぐるみそっくりだった。
「ほかの人は、あなたを見たりしないの?」
初めて白くまに質問した。きっとこれが最後なんだとなんとなくわかっていた。
「……ぼくのことは見えないかもね。でも、白くまなんてさ。みんなそばにいるんだよ」
白くまが言いたいことは、なんとなくわかった気がした。うんと返事をすれば、大きな手でそっと頭を撫でられた。
しばらくして、ふと気づけば東屋にはわたしだけだった。風は相変わらず優しく吹いている。ひよこの群れは、みんなもう家に帰ったようだった。
わたしも帰ろうと思い、テーブルに出していたものをかき集める。リュックを背負って丘から見上げた空は、水分を含んでしとしとしていた。大きく息を吸い込む。鮮やかに青い空を一瞥して、わたしは斜面を滑り降りた。
この小説は、第212回コバルト短編に応募した小説です。公募に落選したものは公開してもいいと聞いたので、修正してここで公開しました。供養のつもりで読んでくだされば幸いです。
ちなみに私はまだ白くま見たことないです。