君を救う歌を歌いたい
よくYouTubeで、様々な歌い手さんがカバーする曲を聴く。
歌い手さんやVTuberの方。
最近はとても歌が上手な方が、ネットには溢れている。
そういう方々の歌を聴いていてよく思うことがある。
皆さん、歌はとても上手だ。
カバー元と寸分違わない程の歌唱をしている方も多い。
しかし、カバーはカバーだ。
どんなに頑張っても原曲の方がMIXは素晴らしいし完成している。
なら、原曲の方を聴くよね、と私は思ってしまう。
これはとても勿体ないことだ。
歌とはエネルギーである。
心をどう込めて自分の中で飲み込み、伝えるか。
それが重要だ。
これはクリエイト分野全般に言えることであり。
それそのものを「コピー」するだけでは作品足り得ない。
私は十数年小説を書いている。
勿論、発想の一つ一つが全てオリジナルではない。
影響を受けた作品は数知れず。
多数の「影響元」が私にも存在する。
それをどう料理して、自分の中で昇華するか。
私はそれを「クリエイト」と呼び、そこに価値を見出している。
なので、カバー曲を漁っていると。
物凄く上手なのに、原曲をなぞっているだけの歌に出会う。
そうすると妙な気持ちになる。
勿論なぞるだけでも相当な技術が必要だ。
しかし、それではやはりオリジナルを越えられない。
そしてその良点を「自分のもの」とすることはできないのだ。
◇
そんなことを思いながら、今日も音楽を流しながら作業をする。
千差万別、ネットには様々な歌がある。
沢山の人間が沢山のことを考え、そして歌を作る。
その大半は消えていく。
広まることもなく、誰に評価されることもなく消えていってしまう。
小説も同じだ。
どれだけ会心の出来の作品を書いても、消えていく。
大半がなかったことになる。
クリエイトとは、そういうものだ。
◇
カンザキイオリさんという音楽家がいる。
最近知った、花譜さんの曲などを多く手掛けている方だ。
この方の曲には、寂しさや悲しみを現すものが多い。
この方の作品の中で「君の神様になりたい。」という楽曲がある。
元はボーカロイドソングなのだが、この方のカバーが特に素晴らしい。
しゆんさんという歌い手さんだ。
激情のまま、叩きつけるように歌唱している。
とてもリアルで、つらい歌だ。
最後にこんな歌詞がある。
「君の痛みを、君の辛さを、君の弱さを、君の心を、
僕の無力で、非力な歌で、汚れた歌で歌わしてくれよ」
しかしこれは、歌の対象の「君」に届くことはない。
「僕は神様にはなれなかった」
「無力な歌で君を救いたいけど、救いたいけど」
という言葉で結ばれる。
自分という無力な存在を自覚して、何も救えない絶望を歌っている。
◇
私は、この歌にとても共感する。
そう、大半の努力は報われない。
大半の「作品」は「誰か」にさえも届かない。
そのベクトルが正しかろうと間違っていようと。
等しく届かないものは届かないのだ。
このネットという膨大な海に埋もれて、消えていく。
心がどんなに叫んでいようと、それが届く届かないは別問題なのだ。
◇
だからこそ、何かをコピーするだけでは更に誰にも届かないと私は思う。
そこを自身の中でどのように消化して、昇華するか。
重要なのはそこであり。
更に最も重要なのは、それでも尚、大半の言葉は届かないという事実。
必要なのはその「自覚」だ。
私も、言葉で何かを救えると思っていた頃があった。
私の文章が誰かに届くと思っていた頃があった。
しかし、世界は思う以上に個々人に対して無関心だ。
そしてその「無関心」の前では、私達は「無力」だ。
カンザキイオリさんの歌の中にもあるように、私達は無力なのである。
無力な私達の心は、誰に届くこともなく。
空中に霧散して、消えてなくなる。
それがおそらく「当たり前」なのだろう。
◇
誰もが誰かの神様になりたいだろう。
必要とし、評価されたいだろう。
しかしそびえ立つ壁はあまりにも私達を拒絶し。
言葉は跳ね返され、砕けて消える。
私達は誰の神様にもなれない。
そしておそらく、私達は神様がいなくても生きていける。
カンザキイオリさんのこの楽曲を聴く度にそう思う。
◇
心を届かせるというのは、とてもとても難しいことだ。
想いを伝えるというのは、とても壁が高いものだ。
そう。
無力な歌で、非力な歌で「君」を救いたいけど。
救いたいけど、それは叶わない。
叶わないけれど、きっとそれは、やめてしまうともう永遠に届かない。
だから、私達は試行錯誤しながらクリエイトを続けるのだ。
私達自身も救われる為に。
◇
そう思いながら、私は今日も小説を書く。
無力な私が、誰かを救うことはなかったとしても。
「君の神様になりたい。」
原曲:カンザキイオリ