尋ねよさらばもたらされん(雀がさ🐤)
久しぶりに街の大型書店に立ち寄った。洋服屋さんでは何を選べば社会生活を過ごすにおいて無難なのかということと、何を選べば自分自身が心地良く満足して過ごすことができるのかということを天秤にかけながら選ぼうとするため、プレッシャーに疲れだんだんと落としどころがわからなくなる。無難に特化すればその服を着るたびに自分が何者なのかわからなくなっていくし、好きに特化すれば気持ちはときめくけれど結局表に着ていく勇気が持てずタンスの肥やしになる確率が高いのだ。
その点書店は違う。まるでホームグラウンドに戻ったような安心感。ゆったりとした気分で新刊のコーナーを眺めて廻る。私はタイトルに惹かれて本を手に取り内容を確かめるタイプだ。裏表紙にある簡単な解説を読んですぐ棚に本を戻すことも多々ある。中をパラパラとめくり内容ではなく文体を眺める。そして好みの文体だということがわかれば内容を吟味する気持ちが湧いて来る。
目当ての文庫本を手に取り、念のため内容を確かめてからしっかりと手に握る。今日は気にいったものがあれば何冊か奮発する気持ちで来たので、店内をまんべんなく巡回することにした。大きな書店はやはり違う。新しいもの、古いもの、マイナーなもの、全部は見切れないほどの本が並べられている。かといって昔足繁く通った古本屋のような匂いは皆無だ。棚と棚との間には人1.5人がやっと通れるほどの通路しかなく、従ってすれ違うには細身の私でも相当書棚に身を寄せ、それでも体と体が触れ合うのは避けられない状態だ。その店は3分の1がレコード、3分の2が本で占められていた。狭い通路でお尻を撫でられたことがあったっけ。ロックにかぶれて太ももが露わになるくらい裾をビリビリに破いたデニムのスカートを履いていたからなあ。
ある出版社の文庫の棚で、ある小説家のエッセイを見かけた。タイトルには「強運な女」の文字がある。ふと考えた。私は自分が強運だと信じてこれまで生きてきたが果たして現在の具合は如何ばかりか。ええ、あなたは今も変わらず強運の持ち主ですよということであるなら、今日中にそうと分かる出来事をもたらしたまえ。神様なのか仏様なのか宇宙の源なのか相手はよくわからないがそう念じてみた、軽い気持ちで。
結局他に欲しい本は見つからず、レジに並んで1冊の文庫本を購入し帰途についた。帰りの電車では席に座れず、久しぶりの街歩きに疲れた私は何度もあくびをしながら最寄りの駅まで20分、何を考えるでもなくただぼんやりと地下鉄のドアに貼られた広告のシールを眺めていた。
すぐに帰りたいところだったが、夕食の材料が家にはない。地下鉄の改札を抜け、自宅とは反対方向のショッピングモールへと足を向けた。手頃な魚があれば煮付けにしよう。子持ちのカレイでもあればいいのだけれど。真っ先に鮮魚の売り場へ向かったがそこにはブリやタイの切り身、3枚に下ろしたサバなどが並んでいた。気分じゃない。逡巡の末に豆腐、牛肉の切り落とし、えのきをかごに入れ晩のおかずは肉豆腐にすることにした。。
やっと帰宅、荷物を置いてまずは休憩だ。毎年ゴールデンウィークが過ぎるころまで出しっぱなしのこたつに座ってお茶を飲む。ちなみにこたつを出しているのはずぼらな訳ではなく寒がりのせいだ。さっさとこたつ布団を洗って押し入れにしまいたい欲求が、よく晴れた日には殊更に高まるが、5月の半ばまでは油断ができない。時に体の芯が冷え切ってこたつのスイッチを入れざるを得ない雨降りの日が訪れるからだ。
お茶をすすってテレビを眺めていると、窓のすぐ外を2羽の雀らしき小さな鳥が横切った。こんなに至近距離を飛んでいるのは見たことがなかったのでそのまま視線を横並びのベランダの窓へと移すと、1羽の雀が同様にベランダの窓沿いに飛び去って行くのが見えた。次の瞬間どうやったらそういう風になるのかが未だわからないのだが、もう1羽が換気のためほんの少し開けていた窓の隙間から部屋へ飛び込み、掛けてあった簾にぶつかってぼとりと落ちた。
あらあらと立ち上がってすぐに救出に向かう私。長年手乗り文鳥を飼っていた経験から小鳥の扱いには慣れているのだ。ぼとりと落ちて一瞬放心状態だった雀は、そのまま開いている窓とは反対のカーテンの中へ潜り込んでしまった。そっちは出られないのよと手を伸ばすがあろうことか今度は部屋の奥へと飛んで行き、天井の角に当たってまた落ちた。
落ちた雀をそっと両手ですくい上げると、まだくちばしの黄色いいたいけな子供の雀であることが分かった。人間の匂いが体に付くと親が嫌がるだろうかなどと気にしつつ、お母さ~んと呼びかけながらエアコンの室外機の上にそっと置いた。まだおぼつかないあんよを八の字に力なく開いてきょとんと座っている。迎えが来るだろうかと身を隠しながら様子を伺っていると、子雀は力強く飛び立ちベランダの柵と柵との隙間を抜け、高速で遠くの屋根へと去っていった。眺めるとそこにはもう1羽雀がおり、おそらく最初に連れ立っていた親か兄弟だと思われた。
地下鉄に乗り、夕食の買い物をし、こたつでお茶をすすっている間に私は自分自身が書店で念じた事をすっかり忘れていたのだが、自宅にいながらあの小さくてふわふわであたたかく、あまりにも可愛い子雀を両手に抱く機会に恵まれたことは、私が強運であることを知らしめるには十分すぎる天からの采配であろう。
ぽやーっとした幼い顔はもう忘れてしまったが、手のひらにはまだ柔らかな羽毛の感触を思い出すことができる。そしてあの雀の子は確かに私が忘れかけていたことを思い出させてくれた。
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