夏暁の花|⑪

「うすいくん」

 “碓氷君”

声が重なった気がして、僕はハッと顔を上げた。

重たいクーラーの音、鼻孔をくすぐる百合の花の香り。目の前には長い髪の、美しい彼女。
気づけば部屋は暗く、夕陽の残り陽に消え行ってしまいそうな彼女を見つめた。

「どうして」
「うん」
「どうして、相沢さんがここに」

 僕は思い出していた。その後起こったことも、何もかもを思い出していた。
どうして、どうして。思わず床にへたり込む。そしてその床に擦り付けるように、胃液と共に疑問の言葉が吐き出される。

“思い出そうとする時、必ず混乱が生じる。頭痛がする人もいる、自我が崩壊してしまう事もある。無理に思い出さなくてもいい、焦らないで”

 マキちゃん先生の言葉が遠くでハウリングする。でももう、もう駄目だよ、マキちゃん先生。

 僕は、思い出して、しまった。

「相沢、百合花」

 僕は、思い出して、しまった。
 僕は、彼女を、この手で。

でも、どうして?

「あなたのせいじゃない、私が最低だったのよ」

 そんなことを言われたって、彼女の言葉はすらすらとどこかへ流れていく。
嗚咽を必死に飲み込んで、現状を把握するのに精一杯だった。

僕とは「友達でも彼女でもない」と言った彼女。
食事を食べず、毎日薬局にあのチョコを買いに行く彼女。
百合の花を嫌う彼女。

そんな彼女は、この世にいないはずの人間だった。

何故なら、何故なら。

 すべてを思い出した僕は、すべてを投げ出してこの場から逃げてしまいたかった。
けれど、僕は携帯を手に取ってマキちゃん先生に電話をかけていた。
記憶をなくして逃げ続けていた僕に、逃げ場なんかもうなかった。
コール音が鳴る間、僕の手は冷や汗でびっしょりと濡れていた。

「もしもし?」
「マキちゃん、せんせい……」
「どうしたの?ねえ、碓氷くん?」
「思い出した……」
「……分かった。すぐ病院に来られる?動ける?」
「はい……」

 顔を上げると真摯にこちらを見つめ続けている彼女と目が合った。
僕は存在を確かめようとするが、「あの時」の感触を思い出して触れることができなかった。

「相沢さんも病院に、きてくれるかな……」

相沢さんが他の人に見えるかどうかはわからない。
もしかしたら今見える彼女は僕の妄想かもしれない。

 以前病院で会った時のことを思い出した。
周りは不審そうにこちらを見ていた。
もし相沢さんが僕の妄想で出来上がったもので、目の前にいるのだとしたら、完全に僕はおかしな人間だ。

なるほど。なんて考えてる暇なんてなくて。相沢さんは目の前にいて、動いていて、一ヶ月近く僕の側にいて、チョコレートを買って。

「他の人に私は見えないの。それでもいいのなら」

 ああ、やっぱり……。僕は小さく頷いて、なるべく彼女の顔を見ずに、病院へ行く支度をした。
台所の百合の花束はゴミ箱に投げ込んだ。

あの頃僕が彼女を喜ばそうとして買った花束。
そうだね、同じことを繰り返す僕はなんて愚かなんだろう。

まだ百合の花の香りがツンとする部屋を、僕らは出た。
病院までの道のりに、死刑台に登って行くならこんな感じだろうとぼんやり考える余裕はあった気がした。
隣を歩く彼女を一度も見ることができず、ましてや話しかけることさえできなかった。

病院は賑わっていて、会計待ちの人や、処方薬待ちの人や……いつも通りの光景だった。誰かに呼び止めてほしかった。逃げたい。受け止めたくない、誰でもいいから声をかけてほしい。
大きなテレビからはみんなの歌が流れ始め、「今日の日はさようなら」が聴こえてくる。
「あの日」も確かどこかで聴いた。何の因果なのだろう。

ラララララ ラララ ラララ 今日の日はさようなら また会う日まで

友達だったなら、せめて友達だったなら。
この歌を気持ち良く聴けることもできたのだろうか。
また会えるなんて思うわけないじゃないか。
だって彼女は、あの日間違いなく……。

 慣れた足取りでマキちゃん先生の部屋へと歩いていく。
受付での喧騒が嘘のように静かになっていく。
三回扉をノックし、返事があるかないかのうちに震える手がそれを押し開いた。
マキちゃん先生は静かにコーヒーをすすっていたが、早速カウンセリング室に僕達を案内する。
異様に静かな部屋だ。
そしていつ来てもここは、嫌な臭いだ。

相沢さんは口を真一文字にして僕の後ろをついてきていた。
ソファに相沢さんを座らせると一人分開いたので、マキちゃん先生は不審そうにこちらを見た。

「マキちゃん先生。僕の横には相沢さんがいるんだよ」
「……え?」
「僕の妄想かも知れない。でも、ここにいる相沢さんが僕のなくした記憶を埋めてくれた」
「碓氷くん……」

いつも飄々としているマキちゃん先生の表情が曇って、信じられないという顔をした。
ここまでは、想定内だったのに。

「碓井さんの中で何が起こっているのかは分からない。でも、思い出したんでしょう?」
「はい。確かに、思い出しました」
「それなら、私も約束を守るわ」

マキちゃん先生は立ち上がり、ついてくるよう指示した。

「マキちゃん先生、どこに行くの」「いいから、来なさい」

本当は約束のことも思い出している。
だけど、おどける様に問う僕を正すように、マキちゃん先生はふるまってくれた。
白衣を翻して颯爽とカウンセリング室をでるマキちゃん先生に倣って、僕も急いであとを付いていく。そのあとを、相沢さんがついてくる。
二人の足音に挟まれて、僕は更に気が小さくなっていった。

「ここよ。よく見て、この名前を」

病室に入口に掲げてあるネームプレートには、信じがたい名前が書いてあった。

“相沢百合花”

 心臓が喉から飛び出しそうな衝撃に、僕は後ずさった。お腹から胸へ、せり上がる感覚に耐えられず思わず相沢さんを見る。

 でも、彼女は、確かに、そこに存在している。

歯が口の中でかちかちとうるさく鳴り響く。僕はそっと、ネームプレートをなぞった。
やっと本当の彼女に触れた気がして、僕は腰を抜かした。

「病室に入りましょう」「マキちゃん、先生……」
「そこにいる相沢百合花さんは本物じゃないわ。ここでずっと眠っているのが、相沢百合花さんなのよ」
「でも、記憶を埋めてくれたのも彼女で、今、ここに立って……」
「だとしても!!記憶を取り戻したのなら、約束通り彼女を見舞いなさい」

 マキちゃん先生がゆっくりとドアを開ける。
いくら空気を吸っても足りない。僕の足はガクガクと震えて、病室の中へと踏み出すことができずにいた。
それを見たマキちゃん先生が僕の腕を掴んで、強引に病室に引き入れる。

首元から発せられる、静かな息の音。

彼女は個室で一人、ただ息をしていた。後ろから付いてきた相沢さん何一つ声を発することなく、自分を見下ろしていた。

 あの頃より少し痩せた相沢さんが、ただそこに、いた。
まるで眠り姫のように眠っていた。

布団から少しはみ出た白い手だけは、あの頃と変わらないように見えた。
だが陶器のように滑らかだった肌は少しかさついているようにも見え、赤く甘い香りを発していた唇はひび割れていた。
それを見て僕は思わず「ああ」と声を漏らしてベッド柵にしがみついた。

 僕は彼女に触れることなんかできなかった。

 僕が彼女に触れたのは、“あの時”だけだ。

「碓氷くんは、相沢さんが好きだったのね」

 その質問に、僕は首を横に振った。
違う。そんなものじゃなかった。
好きだとか、嫌いだとか。そんな生易しい感情じゃなかった。

「……カウンセリング室に戻りましょう。碓氷くん、貴方にしか分からないことを聴きたいの」

 マキちゃん先生は僕の背中をゆっくりと摩りながら、起き上がらせた。力の入らない僕を、上手いこと立ち上がらせる。
その間も、相沢さんは黙って眠り続けている相沢さんを見ていた。

廊下をポタポタ歩きながら、やっと相沢さんが口を開く。

「私、生きている」
 
 相沢さんは可笑しそうに笑うが、僕は力なく頷く。完全に、気が動転していた。猛烈に頭を働かそうとしても、気が遠くなるばかりで何も浮かばない。

病院は空調が効いて涼しいはずなのに、汗が止まらない。
涙も止まらず、僕一人だけが感情を露わにしてみっともないと思ったが上手く感情が整理できなかった。

 カウンセリング室に入るとマキちゃん先生は紅茶を淹れてくれた。きちんと相沢さんの分まで淹れてくれたが、彼女が口をつけることはないだろう。

 僕はティッシュを手に取って、とりあえず一旦落ち着こうと思った。こんなに感情が高ぶるのも何年かぶりだから、僕はどうにもこうにも恥ずかしくなってきた。

「教えて、碓氷くん……そして、相沢さん。貴方達の逃避行の内容を」

「相沢さん……いい?」

「ええ、貴方が信頼しているお医者様なのでしょう?話して、全て話して」

 その了承を皮切りに、僕達の悪夢のような逃避行の全てを、ゆっくりと吐露し始めた。

いいなと思ったら応援しよう!