夏暁の花|⑧

 鍵を渡してから毎日、僕は扉の前に立った。渡したその日にはあまりの緊張で来ることができなかったが、それ以降は毎日扉の向こう側に相沢さんがいないか確認することが辞められなかった。
放課後、今日も彼女が教室を後にしてからきっかり十五分後に階段を登る。屋上は三階の、机が乱雑に積まれたスペースの向こう側にあった。廊下の端、美術室の横にあるおかげで近づく者は誰もいない。
美術部には申し訳ないが、何年も前に廃部になったらしく僕にとってはありがたい事この上なかった。

 そのスペースに近づく前にこっそりとスリッパを脱いで歩き、忍び足で扉に頬を寄せる。
扉は窓枠すらない寂れた扉で、向こう側は見ることができない。なので扉の前に着いて人の気配がすれば、十分だけそこで時間を堪能して帰ることにしている。

 だが、今日は違う。扉の向こう側に行こうと決めている。
相沢さんがいれば、彼女の側に、いや、彼女との間に2mはほしいかも知れない。近づいてしまえば、僕は一体どうなるのか全く分からない。

 僕はいつも通り、スリッパを脱ぐ。傍から見れば、まあ誰も見ていないのだけれど、この動作は少し間抜けだ。ゆっくり、ゆっくりと、これもいつも通り頬を扉に当てる動作をすれば、足音が聞こえる。指定されて生徒が履いているスリッパの音だ。
僕の胸はやはり、踊った。スリッパを履いて、コンコン、と扉をノックしてみる。

「あの、僕です」
「……碓氷君?」

 ひと呼吸置いて、澄んだ相沢百合花の声が返ってくる。

「はい、碓氷です」

足音がゆっくりと近づいてきて、向こう側で扉の鍵がガチャリと重そうな音を立てる。僕は生唾を飲んでえずくのを堪えながら、扉が開くのを待った。

「碓氷君」

 彼女はいずれ僕とここで出会うことが分かっていたのだろう、特に慌てた様子もなく笑顔で僕を迎えてくれた。その距離がもう、僕には近すぎた。
それでもなんとか堪えて屋上へと歩を進めると、肌寒い空気が制服の中に入り込む。夕暮れ時特有の冷たさだ。春先とはいえ、まだここまで冷えるとは。

 僕は学ランの袖の中に手を引っ込めた。それが可笑しかったのか、相沢さんが僕を見て少し笑ったのを、見逃さない。
久しぶりに、前髪が邪魔だと思えた。それでも真っ赤になっているこの顔を見られるくらいなら、このままの方がマシだ。

「鍵、使わせてもらうことにしたわ。ありがとう」
「いや、それなら良かったです」
「ここ、思ったより広いのね。初めて来た時びっくりしちゃった。碓氷君はいつからここを使っているの?」
「二年の初め頃……掃除担当がここになってから」
「え?生徒は掃除でも立ち入り禁止でしょう?」
「先生が、ここ掃除するの面倒くさいからって。僕ならと思ってくれたのかもしれない」

 けど残念だったよね、と付け加えようとして僕の息が続かなくなった。ハキハキと喋る相澤さんに反比例して僕はボソボソと喋っているのに、息が上がって言葉が上手く紡げない。自分の言っていることがきちんと伝わっているか、言葉遣いはおかしくないか……もう何も分からない。
 少しの間に、相沢さんは陽の当たる場所へ歩いて座り込んだ。僕もそれに倣って、なるべく不自然に思われない距離を取りつつ横へ座る。

「碓氷君は、その……前髪切らないの?」
「ああ……うん」
「どうして?物を書くとき邪魔そうに寄せてたじゃない」

 数学のミニテストがあった日のことを覚えていてくれたのだろうか。そんな些細な僕のことを覚えてくれていたとでも言うのか。それだけで、僕は彼女に向かって無性に土下座したくなった。

「なんとなく、長い方が落ち着くから……ずっと長いし」
「私が切ってあげる」
「え、」
「私、前髪は自分で切っているの。碓氷君の前髪も上手く切れると思う」
「いや、でも」
「嫌?」

 この場面でいたずらに微笑む相沢百合花は確信犯だと、そう思った。その美貌で微笑まれて、NOと言える男がいるなら見てみたい。
僕の頬はより一層紅潮して、きっと歌手がステージを終えたらこんな風になるんだろうなあなんてぼんやりと考えたりした。

「そんな、嫌ではなくて」
「なくて?」
「申し訳ないというか」
「……嫌なんだ?」
「いや、」
「じゃあ切ってあげる。明日、鋏を持ってくるからまた放課後ここで」

 相沢さんはそう言って立ち上がり、大きく伸びをする。その、風が靡けばスカートの中が見えてしまいそうで、僕は思わず体育座りに座り直し、見てみないふりをしてグラウンドの運動部に目を向けた。
グラウンドは坊主頭が占拠しており、他の部はひっそりと空いたスペースで坦々と練習しているように見えた。

「運動部に入ってみたかったな」

 同じくグラウンドを見ていた相沢さんが、小さく呟く。彼女は運動神経も抜群なのに、帰宅部だ。確かに謎に思ったことがある。

「放課後は忙しいの?」
「ええ、まあそんなところね」

 そう言っているうちに彼女は傍に置いてあった鞄を手に取り、帰宅の意を示した。

「帰るわ。また明日ね、碓氷君」

じゃあ僕も、と言いかけたが帰りも一緒だなんて無理だ。そんなおこがましい事が、と思ったが明日前髪を切ってもらえると思うとそんな事で狼狽えている場合ではなかった。

 相沢さんが、僕に触れる?

また嗚咽が出そうになって、僕はさよならの代わりに小さく頷いて見せた。それを見た相沢さんは、また小さく笑って屋上を後にするのだった。
完全に扉が閉まったのを確認すると、僕は後ろに倒れこむようにして大きく寝転ぶ。

 嘘のような世界が、どんどん広がってゆく。あの相沢百合花が僕の前髪を切る、と申し出たのだ。……何故?
僕はどうしようもなくなって、手で顔を覆う。そのままぐちゃぐちゃに揉み混んだ。明日この顔が、彼女の前に晒されてしまうなんて。何故、何故相沢百合花はあんな事を言い出したんだ。
鍵のお礼とでも考えているのだろうか?僕に向かって怒る彼女が見たいという単なる欲望であったのに。

 その日、僕は夕食なんか喉に通らなかった。母はこれでもかという程心配してくれたのだが、あなたの心配している息子は馬鹿みたいに女性を崇拝しているせいで、なんて言えるはずもなかった。

自室に引きこもって、ベッドの上で鏡をまじまじと見つめる。本当に、僕は自分の顔が嫌いだ。
前髪を分けてみたが、青白い顔に隈が浮かんでそれはそれは男として貧層に見えた。そのくせ血色のいい唇は桜色に染まり、まるで女子のように蜂蜜を滑たくったように濡れて見えた。
 明日、相沢さんにこの顔を真正面から見られてしまう?僕はその間どうしたらいいんだ?力の抜けた手から鏡が滑り落ちて、布団にばさりと落ちた。もう、泣いてすらしまいそうだった。

 約束である次の日もより一層酷い隈を作って、僕は登校した。教室に入る頃にはいつも通り相沢さんは登校していて、友人に囲まれながら楽しそうに談笑している。

当の僕は寝不足のせいか、そんな相沢さんが窓から差し込む光で消えてしまうんじゃないかとぼんやりとした視界の中で思ったりした。頭が異常に重たい。下を向くとガンガンと酷く痛んだ。
席に着くなり僕は机に突っ伏した。そのおかげかいつも挨拶をしに来る高野さんを回避することが出来た。
 その後も僕は休憩とあらば悉く机に突っ伏し、目を瞑った。暖かい昼休みだけは、いつ寝たのか記憶が無い程に寝入った。しかし、目を開ける度“放課後”“前髪”が頭に浮かんで心臓が痛んだ。

放課後になると、僕はまず手洗い場に行き、目ヤニがついていないか鏡で確認した。少し、目が腫れぼったい気もするが仕方がない。
多少睡眠をとっても隈はそのままだが、これも致し方ない。

 一旦教室に戻ってヒカルを三、四曲聴いてから屋上へと歩いた。今日はスリッパを脱ぐ必要はない。扉に近づいて、何度も呼吸をする。これまでにない程厳かに鍵を差し入れ、扉を開けた先には。

 ……誰もいなかった。そこにいるはずの相沢百合花が、いない。

僕はその現実を受け入れられず、しばらく茫然自失で立ち尽くした。小悪魔のような彼女だからどこかに隠れているのでは、なんて思考が巡るがこの場所に彼女ほど小柄でも隠れられるような場所はない。
どこからか舞い込んできた落ち葉が風でカサカサと揺れる音だけが身近に聞こえる。いつもの運動部の声は、囁いているのではないかという程遠く聞こえた。

どれくらい突っ立っていたのかは分からない。

「碓氷君」

高速の速さで振り向くと、キイ、と静かに音を立てて扉を開ける相沢百合花がいた。

「あ、あ、相沢さ、」
「ごめんね、急に学級委員の仕事を頼まれたの。しばらく待ったでしょう、本当にごめんなさい」
「いや、待つの、全然平気」

焦って変な日本語が僕の口から飛び出す。全然ってどういう意味だっけ、こういう時に使っていいんだっけ。ああ、夕陽が薄い朱墨を垂れ流したように美しい。なんて鮮やかなんだ。いや、僕は今何を考えているんだろう。

「前髪、切りましょう。そこに座って?道具、きちんと持ってきたわ」

僕は上着の学ランだけ脱いで、相沢さんの指示通り地べたに座る。彼女は手際よく僕の体にビニールを巻きつけ、首元できゅっと結ぶ。瞬間、指が首筋に触れて呼吸が止まるかと思った。どっと汗が噴き出て、前髪が額に張り付いた。拭いたかったが、手が微動だに動かなかった。息を吸えばいいのか吐けばいいのかわからない僕は、出来るだけ息を止めた。勿論、酷く苦しかった。
静寂の中、何ができるのか考えを巡らせるが、全てを委ねてしまうしかない。

 髪留めで髪を寄せられると、視界が広く開ける。ふいに恥ずかしくなってとっさに俯くが、意にも介さない様子で、相沢さんは僕を見つめた。

「こっちを向いて」

心臓が波打つように跳ねたのが分かった。一瞬だけ目を合わせるが、続くはずもなく、目線を逸らす。
理由の分からない激しい罪悪感に襲われて頭がおかしくなりそうだった。
もう一度恐る恐る真正面を向くと、恐ろしく端整で、その端整さ故にむしろ不安を煽る相沢百合花の顔があった。圧倒的に美女であるのに、その精密さと繊細さが胸をざわつかせる。
きっとみんな、この不思議な感覚に心惹かれるのだと再認識した。僕みたいな人間が、この世にあとどれだけいるだろうか。

 蝋を塗ったような肌に、切れ長の三白眼。高くつんとした鼻筋。そして丸みのある赤い唇からは微かにリップクリームの甘く淫らな香りがする。
入学式当時は胸部辺りまでの長さだった髪の毛は伸び、今は彼女の腰辺りを揺れていた。

「切るわね」

 そ、と彼女の指が優しく僕の髪の毛を弄ぶ。僕は真正面を向きながらも、目線は下に戻し、握られている握りこぶしに落としていた。こんな近くで、相沢さんの顔なんて見ていられるはずなんかない。

彼女が呼吸をするたびに香る香りだけで、僕の頭の中はおかしくなってしまいそうだった。
今日一日眠くて仕方がなかったのに、今は何もかもがクリアに感じられる。耳も酷く熱い。僕はあまりにも、正常ではなかった。

 しゃき、しゃき、と切られていく前髪が足元に落ちては風に舞ってどこかへ飛んでいく。不思議と切られている感覚があまりなかった。相沢さんは髪を切る才能もあるというのか?
天は彼女に何物持たせて彼女に生を受けさせたのか問い正したい。
そんなこんなぐるぐると思考しているあっという間に、彼女はふう、と息をつきながら髪留めを外す。

それでもクリアな視界が急に怖くなって、額に手を当てて表情を隠した。
これは“恥ずかしい”だ。

「鏡、見てみて」

 相沢さんが僕の前で大きな鏡を開く。指の間から覗くと、本当に美容室で切ったように上手く、自然にカットされていた。思わず僕は手を退けて鏡に見入ってしまった。
そこには、中学時代よりも大人びた僕の顔があった。あの時と同じような髪形になっているのに、表情は全く違う。いつの間にか自分でも知らぬうちに成長していたようだった。それに驚いて、鏡に見入ってしまったのだ。

「ありがとう、凄い」

 まるで小学生のような感想でしかお礼を言えない自分が悔しかったが、それは素直な感想だった。

「良かった、あまり短くならないようにしてみたの」
「うん。すごく、ちょうどいい」
「碓氷君、絶対にこの方がいいわ」
「相沢さんが、」

そう言うなら。
そう言いかけて、辞めた。相沢さんが不思議そうに僕を見つめたが、曖昧に笑って前髪を撫でつける。

今度は僕自身でビニールを外し、バサバサと髪の毛を払い落とした。そのまま折り畳んで、僕が破棄する意を示す。

 本当に、視界が明るい。野球部が打っている球の行く先まではっきりと見ることができる。
 ということは、相手にも僕の顔がはっきりと見えるという事だ。覚悟していた事だけれど今まで通り、なるべく俯けば大丈夫かな。

「碓氷君、綺麗な顔立ちをしているのね」

小道具を袋に入れながら、相沢さんが言う。お世辞だ、分かっている。前髪を切ったからそんな事を言っているだけだという事は僕にだって分かる。

「モテたでしょう、前髪が短かった頃は」
「そんな、」

 突然に中学時代を思い出した僕は、言葉を濁した。友人が片思いしていた女子に告白されて縁を切られたという、苦いアレだ。
実をいうと、他の女子何人かにも告白されていた。

「モテていた頃の話が聴きたいわ」
「違うんだ、いい事なんかなかった」

 あら、と不思議そうな声が返ってくる。

「友達が好きだった子に告白されて……その友達には縁を切られた」
「碓氷君は何も悪くないじゃない」
「こっぴどく振ってしまったから、その子を傷つけたことに怒ったんだと思う」
「そうだったのね……いいわね、みんな恋して。恋バナなんて、いつも聴いてばかり」
「……どうして?」
「私、恋したことがないから」

 彼女はあくまでもいつもと変わらない口調で話したようだったが、それはいつもより強い口調のように感じた。それに、恋をしたことない、なんてわりと想定内だ。
だって彼女に釣り合う人間なんか、僕は見たことがない。

 それにしてもあの相沢百合花が、目の前の相沢百合花が、前髪を切っただけに飽きたらずそんなことまで話してくれるとは。
軽く眩暈がして、一瞬上半身のバランスを崩しそうになった。

「恋ってどんなものなのかしら」
「……僕も、分からない」
「恋をするって、遠回しな子孫繁栄の言い訳にしか聞こえない気がするわ」
「そうなのかも、しれないね」

 僕の相沢百合花に対する思いは恋なんて生温いものではないから、恋が何か明確には分からない。それは正直な思いだった。
それに自分自身、恋をしたことがなかった。高野さんの様な女子に愛嬌があっていいなあ、だとか素直に笑う子でいいなあ、等と思った事はあったがそれが恋心に直結することはなかった。

恋心とはどれくらい甘美な情緒であるのだろうか。僕は相沢百合花がこの世に存在し続ける限り、その情緒を知らずに死ぬのだろう。

「碓氷君ってわりとドライね」
「そう、かな」
「もっと恋に希望的観測を持っていると思ってた」
「恋したことないから」
「同じね。私達って」

仲良くなれそうね、と感慨深そうに相沢さんは呟いた。

 それを聴いた僕は居ても立ってもいられなくなって屋上を飛び出して階段を駆け下りた。昇降口のゴミ捨て場にビニールを突っ込んだが、再度それを取り出して腕の中に抱きしめてその場にへたり込む。

仲良くなれそう、だって?誰と、貴女が?私達って、誰と誰が?

 体の震えが止まらない。誰かにこの心境を吐露させてほしいと願ったがそれは叶わない。行き場のない衝動が鼓動を突き動かしているかのように、心臓の音がうるさい。
腕の中でガサガサと鳴るビニールだけが、リアルだった。
ゴミ捨て場で嗚咽を繰り返す。出てくるものなど何もないのに、止まらない。寒さの中急に走ったせいで、肺も痛む。

 だが一旦落ち着くと、自分のやってしまった事の重大さにはっと気づく。相沢さんを置いて、いきなり逃げてきてしまった。絶対に不審に思ったはずだ。
仲良くなれそう、だなんて思ってもらった矢先だ。
でも、僕達が仲良くなることなんてありえないのに。
 前髪を切ってもらうなんて好意に甘えてしまって、僕は完全に浮き足立って忘れてしまっていた。彼女がいかに高貴で甘美な存在で、僕なんかが触れてはいけない人間だということを。

 もう一度、思い上がることなんてないように。二度と、ヘマなんてしないように。僕は天に誓わなければならない。
 胃液の粘つくビニールを抱えたまま、僕はよろよろと立ちあがって学校をあとにした。

いいなと思ったら応援しよう!