夏暁の花|小説⑥

 掲示板を見た瞬間、僕はもう死んでもいいとさえ思った。
いや、嘘だ。これから一年は確実に、死ぬことなんかできない。
ああ、生き死にさえ僕は彼女に支配されている。

出席番号一番、相沢百合花。その横に並ぶ出席番号二番、碓氷一架。
彼女の名前の横に僕の名前があって、それは高校生活最終学年にして同じクラスだということを意味しており、いや、そもそも名前が並ぶなどという暴挙が許されてもいいのだろうか。

 入学式で彼女・相沢百合花に一目惚れしてからというもの、僕は彼女になんのアプローチも出来ずにいた。いや、強がりではなくアプローチしなかったという方が正しい。
だって、僕みたいな人間が彼女に話しかけたり、触れたりすることなんかおかしい。そんな事ができる世界は絶対に嘘だ。

朝礼や行事の時に廊下ですれ違ったり、合同授業で一緒になったり、僕はそれだけで良かった。
なのに、同じクラスになって、出席番号が隣で、絶対に嘘の世界が始まるかも知れない。

僕はぎゅうっと強く鞄を握り締めながら、教室へと歩いた。鼓動は早いのに、落ち着いたフリをしたい身体はやけにゆっくりと歩を進める。
見つめるのはいつも足元。前を見たって髪の毛で目の前は塞がれている。

理由は勿論、あった。 

 中学生の頃は今よりはまともだった。
友人もいたし、前髪もきちんと校則に引っかからないように散髪していた。

けれど、僕は昔から自分の何もかもが大嫌いだった。
長い睫毛に、赤い唇。しかも、伸びない背。一向に付かない筋肉。
今だって170cmあるかないか、微妙な瀬戸際だ。
自分に自信なんかなかった。

 それでも大事な友人が片思いしていた女の子は、僕なんかに告白してきたのだ。
「なんで僕なの」という質問に彼女は、「ずっとクラスで一番かっこいいと思ってた」などとふざけていた返答をぶつけてきた。
焦って「全然好きじゃないから」と断って泣かせてしまったことが友人にバレて、僕は友人に殴られた。殴られるだけならまだしも、嫌われて縁を切られてしまった。

 それ以降僕は前髪を伸ばし、視界を遮り続けている。
加えて俯いて歩いていれば、僕に話しかける人など誰もいなくなった。

……そんな僕が、相沢さんとどうこうなんて。

 教室の前で深呼吸を二回ほど繰り返す。
鞄を握り締め続けていた手の痛みが、ようやく脳に伝わってきた。

顔を上げて自分の窓際、前から二番目の席を見ると知らない女子が寄っかかって……相沢さんと、談笑している。
騒がしい教室の中で、一瞬時が止まったかのように自分の呼吸が止まった気がした。
とりあえず、席に付かなければ。

「……ちょっとそこいい?」

 あ、と場所を移動してくれた女子に一礼して鞄を横側に引っ掛ける。

「ねえ、初めて同じクラスになるよね?名前教えて?」

 あろうことか、相沢さんが僕に話しかけてきた。思わず顔を上げて相沢さんと視線を合わせるが、急激にこみ上げる感情に負けてやはり俯いてしまった。

「……え、あ、うすいいちか」

 心臓が胸の中で暴れ回り、いくら息を吸ってもまだ足りない。
相沢さんと言葉を交わしてしまった。
しかも初めて同じクラスになるなんて、僕を知らないでいて、でも今日知って、僕の存在を、僕の存在が、僕の存在が、相沢さんに。

 全身が、痺れた。陽のあたる席に座っていることもあり、汗が吹き出て、机の上にポタリと垂れる。

「うすいくんね、覚えたよ。私は相沢です。卒業までよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」

 僕はあくまで淡々と答える。その声が震えているのか、普通なのか、もうそれすら分からない。
耳に膜が貼られたように周りの音がうわんうわんしている。
 周りも習って口々に自己紹介をし始めたが、何一つ頭になんか入ってこなかった。

 その後のホームルームも、相沢さんからプリントを回されたり、彼女の長い髪が視界に入ったりして、僕は今すぐにでも駆け出して逃げてしまいたい気分だった。
耐えられない、こんなすぐそこにあの相沢百合花がいることが。

落ち着かなくて、僕は机の端に花丸を書いた。
一回、相沢さんと話せたことが、嘘でない印だ。

 ホームルームが終わると、僕は一目散に帰宅した。
靴箱で手が滑って靴が飛んでいったり、水をまいていた玄関で滑ってこけたり、まるでコントのようなことを繰り返しながら、僕は走った。
喉の奥が痛くなっても、マフラーが外れかかっても、僕は思い切り家路を走った。

 しかし、それ以降しばらく彼女と会話することはなかった。
勿論、それでいい。僕は彼女の視界に入るなんて烏滸がましい。

いや、でもほんの少しだけ話すくらいなら……そんな期待をしても、彼女の周りは常時人で溢れていた。僕が入る隙間なんて1mmたりともない。

 時として、彼女には告白の呼び出しなんかもあったりした。
その度に僕は相手が呪われるよう心の中で祈ったりと、産んでくれた母に謝罪したいくらい根暗に過ごした。

昼休みは購買で買ったお菓子を食べ、校庭ではしゃぐ人達を眺めた。それに飽きると何度も読んだ本を開いて、何度も読んだ。

放課後暇なときは、こっそり盗んだ鍵を使って屋上へ忍び込み、悦に浸ったりした。
遠くに聞こえる運動部の掛け声や、日々流れる音を聞きながら寝転がるのがとても好きだった。

 こんな感じで、僕の高校生活は、ずっとこの繰り返しだ。最近は中古で買ったipodで曲を聴いたりしているが、入っている曲は家にあったヒカルのアルバムだけだ。

 そんな昼休み、誰かがイヤホンをふいに外した。

「わ、」

思わず椅子ごと後ずさる。
相沢さんの手にはイヤホンが、なんとかさんの顔にはひきつった笑いが。

「ごめんね、返事がないからつい」
「いや、こっちこそ……何?」
「うすいくんはどんな女の子が好きなの?って聞いたの」

予想だにしなかった質問に、少し顔を上げてしまった。教室中がこっちを見ているような気がして、また視線を下げる。

「……多分、手の届かない人」
「手の届かない人?」
「碓氷君分かりにくーい」
「ごめん……やっぱ今のなし」

それで話は終わるかと思ったのだが、

「芸能人で言うと誰?」

 相沢さんの方が僕に質問を続けた。もう僕は、全身に力がこもってどうにかなってしまいそうだった。
まともに前なんか見れない。必死に机の模様を眺めていたが、左耳にまだ突っ込まれたイヤホンが失礼にあたるとようやく気づいて、それを落ち着いたようにみせた動作で外して電源も切った。

「……分からない、あまり興味がないかな」
「じゃあ今何の音楽聴いてたの?」
「今聴いてたのは、ヒカル」
「いいね、私もヒカル好きだよ。他には何を聴くの?」
「適当に何でも聴く、かなあ」
「そっかー」
「相沢ちゃんは何聴くのー?」
「私はねぇ……」

 そこで僕は話から外れることができた。なんとかさんは僕の話がとてつもなくつまらなかったようで、本当に良かった。
これ以上冷静さを保って相沢さんと話をするのは無理に違いなかった。また初めて話をした日のようにどこかへ走り去ってしまうところだった。

「あなた以外なんにもいらない、大概の問題は取るに足らない」……ヒカルの歌が頭の中で流れる。鬱蒼とした霧が晴れたように、まばらでまとまらなかった気持ちに答えが出たような気がした。
 この高校三年間、相沢さんは誰とも付き合っていない。多分。
彼女は酷く繊細な顔立ちで優等生でもあり、そんなアイドルのような彼女の情報は僕にさえ入ってくる。

 僕はまた机に花丸を書き足した。そのままおもむろにイヤホンを耳に突っ込んでヒカルの歌を聴こうとすると、今度は後ろから肩を叩かれた。

「碓氷君、ねえねえ」

今度は椅子をずいっと引いたりはしなかったが、あまりの驚きで体がビクッと反応してしまった。
振り返ると、同じクラスのこれまたなんとかさんだった。

「良かったら文芸部の冊子に短編小説とか書いてくれない?よく本読んでるし作文得意そうだし」
「ごめん、僕本を読むのは好きだけど物書きには向いてないよ」
「どうしても駄目?このいちごミルクあげるから、ほら」
「……買収?」
「だって本読んでる時いつも飲んでない?」
「最近ハマってるだけだよ」
「甘党なんだー」
「そうかもしれない。でもとりあえず、物を書く気はないんだ、ごめん」

 僕は実のところ、本当に相沢さん以外の女性に興味がない。けれど相沢さんとどうこうなんて、絶対に許されない。
女っけのない僕を見ていた両親が不審に思って、同性愛者なのかと疑ってきたほどだ。それは違うと答えると、今度は男性ホルモンの治療に連れて行かれそうになった。

「そっかー、じゃあ今何聴こうとしてたの?」
「えっと、ヒカル」
「ヒカルは明るい歌より暗い歌のほうが好きだなー」
「僕もそう思う」
「だよね、あと最近デビューしたグループのさ……」

後にこの人は高野さんだということが分かった。
高野さんはやたらと僕に話しかけてくる。会話すること自体はどうでもいいし、苦でもないのだが三年間喋り慣れていない僕はほとほと疲れてしまう。
女友達、と呼べるくらいに話してはいるがやはり興味も湧かない。

自覚はしている。僕は異常な目で相沢さんを眺め続けてきた。
この事が知れたら、迷わず身を投げるだろう。

好き、とも違う。
友達になりたい、とも違う。

けれど、僕の目は三年間、彼女を追い続けてきたのだった。

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