夏暁の花|➉
「碓氷君、家に来ない?」
それは唐突で尚且つ恐ろしい僕への投げかけだった。
いつもの屋上で、さらりと彼女の長い髪が風に舞う。
俯いていた横顔が露わになる。
けれど彼女の表情はとても強張っており、いつになく真剣に見えた。
勿論僕はこんな質問で彼女の体を弄ぶなどという妄想はできない。
健康な高校生男子ならこんな質問、容易く頭を縦に振るだろう。
相手が相沢さんともなろうと縦ノリも余裕綽々だ。
「どうして?」
「話があるのよ」
「ここではできない話?」
「当たり前じゃない」
この屋上は間違いなく二人きりだ。
家でしか話せない話なんて、僕には検討もつかなかった。
けれど、僕は分かった、と頷いていた。
いつの間にか僕と相沢さんの関係はここまで発展してしまっている。
緊張することも少なくなってきていた。
今だってきちんと相沢さんの表情を見て、流れるような美しい動作を見て、それらを記憶することができる。
……とんでもない多幸感だった。
だから僕は気付かなかった。
上手く生きていくということを放棄していた僕のせいで、相沢さんは次の日事件に巻き込まれることになるなんて。
そもそもの僕はコミュニケーション能力に欠けていて、だけれどそれが弊害になった記憶がない。
前髪がまた短くなったことで、少しだけ視線も上に上がるようになっていた。
ただ、周囲への警戒心も薄れてしまっていたのだ。
「ねえ一架君、これ見た?」
出処は間違いなく、この高野さんだと気づいたときにはもう遅かった。
唐突に広がっていていく何枚もの写真。
僕のガラケーにはインストールされていないアプリで、その写真はまたたく間に広がっていった。
"あの相沢さんが屋上に入り込んでいる"
後ろから撮影されていたその写真に映る長く美しい髪の毛と凛とした背中は、紛れもなく彼女だった。
何故かいつもその後屋上に行く僕の写真が出回っていない事、告白された時に蔑ろにしたことを、僕は思い出していた。
震えが、止まらなかった。中学生ぶりに、血の気が引くという思いをした。
僕が渡した鍵によって相沢さんは呼び出しをくらい、好奇の目に晒されてしまった。
その事実に耐え兼ねた僕は、喜々として写メを見せてくる高野さんの首元に手が伸びた。
が、はっとして手を不自然に引っ込めてやっとのことで膝の上で拳を握り締める。
「相沢さんも校則違反とかするんだね」
その醜い顔も体も雑巾絞りのように捻り潰してやりたかった。でもそれを出来ないのは、大元の原因は自分にあるからだ。
何度も拳で膝を打った。返事をせず俯いて机をがたがたいわせている僕が恐ろしく見えたのか、高野さんは引きつった笑いをしながらその場を去る。
やっぱり、近づいちゃいけなかったんだ。僕が相沢さんと関わってしまったばかりに。
周囲のざわめきが全て悪口に聞こえた。
頭の中がくらくらとして、思考が絡まる。まるで自分が宙に浮いている気分にさえなる。
相沢さんが帰ってきたのは、一限目が始まる直前だった。
教室に戻ってきたのは、彼女の取り巻きの質問攻めが耳に入ってきたことで分かった。
そして、俯いていても、前の席に座ると視界に入る長い髪が、僕の視線を釘付けにする。
またしても血の気が引いて体がぶるぶると震えている気がした。顔なんか上げることもできなかった。
もし、これで彼女に嫌われたら?なんてこの期に及んで保身に入っている自分にほとほと嫌気がさす。
いよいよ僕は末期のクソ野郎だと思った。
チャイムが鳴ると同時に、僕はよろよろと立ち上がって、教室を出る。
彼女と同じ空気を吸うなんて、許されない。これからどう生きていこう。どうして僕は、どうして僕は、こうなんだ。
僕は放課後まで悶々と保健室で過ごした。
詰られるんだろうか、鍵を突き返されるんだろうか、いろいろな思考を巡らせる度に嗚咽が止まらなくなって帰宅してしまおうかとも思った。
想像力が豊かすぎる人間に育ってしまったみたいだ。
でもそんな事は、許されない。僕はベッドの中でこうやって丸まっているしかないのだ。
放課後のチャイムが鳴ってからは、ゆっくりと300秒数えた。息を整えて、一体今日お前は何をしに来たんだというような養護教諭の顔を尻目に歩き出す。
僕の精神状態は、歩き慣れた廊下さえも初めて歩いているような気にさせた。
あまりにもゆっくり300秒数えすぎたのか、いつもより廊下は閑散としている。
屋上にたどり着くと、僕は震える手でノックをする。
「碓氷君?」
まるで初めてここで出会った時のような返事が返ってきた。体がぐにゃりとまがりそうな程僕は体中の力が抜けた。
「……僕です」
ガチャリとドアノブを開けようとする音に反して、僕の手はドアノブを反対方向に回していた。
「そのまま、どうか、扉越しで」
相沢さんは察してくれたのか、ドアノブから手を離したようだった。
「……すみませんでした、僕が、鍵を渡してしまったせいで、」
さっきまで頭の中で何度も練習した言葉がおかしなことに上手く出てきてくれない。拳を握り締めていないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「そんなのどうだっていいわよ、私の家に来てほしいって言ったでしょう?その事を話したかったのよ」
「でも、怒られたんじゃ……」
「碓氷君、私は生まれてこの方教師に怒られたことがないのよ」
気を遣っているのでは、と考えたが彼女ならそれも嘘じゃなさそうだった。
「ねえ、そっちに行ってもいい?それでこのまま、家に来てほしいの」
「どうして……」
「お願い」
僕が断れるはずがない事くらい彼女は御見通しなのだろう。前髪を切ると言い出した時もそうだった。
僕が拒否しないと分かった上で、彼女は全てを推しはかっているのだ。
再びドア伸びがガチャリと回る。
ドアが開き、吹き込んできた強い風と共に彼女特有の甘い香りが漂って、僕は眩暈を起こしてしまいそうだった。
「碓氷君」
彼女の細い指が僕の腕に絡みついた。僕は酷く肩をびくつかせた。そんな反応をしても、彼女は優しく笑う。そして、硬直している僕の腕を更にいやらしく指でなぞった。
必要以上に、体が汗ばむ。季節はもう、移り替わろうとしていた。