夏暁の花|⑮
「しっかりして、碓氷さん」
遠くでマキちゃん先生の声が聞こえた。耳の中が波打っているかのような感覚で覆われていた。
僕は、僕は……相沢百合花は死んだと思っていた。思っていたからこそ、何年か寝たきりになっていたのだろう。
茉莉花なんかに執着して、僕の理想を蹴散らした彼女への罰だと思って。
そして、記憶は消えた。
百合の花束と一緒に「おめでとう」と祝わせてくれていれば、長年あんな寂しい部屋にいずにすんだのに。なんて今でも思ってしまうなんて。
けれどそれが馬鹿げたことだと気づくことができるようになっていた。僕はあの頃より少しだけ理性的で、方法や選択肢を存分に持っていた。
「碓井さん、相沢さんは……どこにいるの?」
マキちゃん先生の手が空を切る。
確かにそこに存在する相沢さんはどうしていいか分からないようで、その手をつかもうとした。
「容態は……?」
「五年間眠っているわ。運よく見つけられて、運ばれて。それからずっと。父親は……もう亡くなったわ。その、自宅で……」
「マキちゃん先生……僕は、僕は」
「……二人でやり直したらどうかな」
「え?」
「出来なかったこと、したかったこと、二人でしたらどう?私はそこに相沢さんがいるって信じるわ」
「碓氷君」
相沢さんが丸まった僕の背中を摩りながら、語りかける。
「私、時間がないの。貴方と会ってから、幽霊として四十九日間を与えられたわ。もうすぐ、四十九日が経つ。あと一週間であなたとはお別れなの」
「嘘だ……」
「嘘じゃないの。本当の死が、私にはやってくるわ。でも、全然怖くない。あなたと、最後まで過ごしたい」
息を吐くたびあ、あ、と泣きそびれた声が漏れ出る。
夜もうるさい蝉の鳴き声を聴きながら、僕は記憶が全部嘘ならいいと思っていた。
今なら、友達にでも何にでもなれそうなのに。あの頃の間違いさえなかったら、愛して、救って、手を取って生きてゆけるのに。
彼女と過ごした時間。
記憶。
僕は、やっと、彼女を愛した。
やがて死にゆく彼女に触れたくて、僕は手を彼女に差し出した。
今度はさようならじゃない。
彼女は笑って、その手を握った。
白く、小さく、柔らかかった。
それから僕達三人で、出来る限りの今後のことを考えた。猶予は一週間。
そこで何が出来るか?
結論はこうだ。
「一週間で逃避行のルートを辿る。最後は放課後で学校でさようならをする」
マキちゃん先生は大賛成してくれた。
相沢さんもあの時のように、目を輝かせた。
「マキちゃん先生、信じてくれてありがとう」
「いいから、二人で楽しんでらっしゃい」
僕を頭をおかしい人間と扱わず、信じてくれたマキちゃん先生。
ずっとずっと、僕を見守ってくれた。
飼い猫によろしく、と言い残して僕達はマキちゃん先生に手を振った。
それから夜が明けるのを待って僕達二人は、始発で一番遠い切符を買った。
今度は一枚しかいらなかった切符。
感慨深く、僕はその切符を駅員さんにもらうことにした。
相沢さんは、もう誰かに見つかることもないのに僕の家に置いてあった帽子を目深に被っていた。
彼女はあの頃のように終始嬉しそうに笑い、電車の景色を楽しんでいた。
何かを見つけるたびに僕の袖を引っ張るのだけど、動体視力が追いつかなくて僕は少し辟易してしまった。
でも、そんなことすら愛おしかった。
最初についた街は、あの田んぼが多い街だった。
駅から街中まで少し歩くだけで、僕は汗でびっしゃりになってしまう。
汗をかかない彼女は、やはり幽霊なのだと再認識する。
街中の賑わいはあの頃と変わらないが、少し建物が変わっているように見えた。
なんとなく、なんとなくだけれどあの頃の景色がぼんやりと僕の中に浮かぶのだ。
隣には変わらぬ彼女。その隣には、少しだけ大人になってしまった僕。
「碓氷君、見て!!あそこのコンビニでタウン誌をもらったのよね!!」
周りに怪しまれないように僕は彼女と目線を合わせて頷く。
そうだ、街に入ってすぐにタウン誌を手に取って漫画喫茶に逃げ込んだのだ。
とにかく、警戒していた。
あの頃の僕と今の僕がどんどん同化していくような気がして、少し怖かった。
でも、今の気持ちは何にも代え難い。
何故なら、相沢百合花を愛しているからだ。
彼女の白く伸びた脚が、僕の行く道を次々と決めていく。
僕はそれに従って、あちこちと歩く。
そして、繋がれた手は汗ばんで、旅の楽しさを物語っていた。
僕だけに見せる笑顔や仕草が、全て愛おしかった。
五年という歳月が、僕を変えるなんて思っていなかった。
昔や記憶喪失の間であったら、こんなこと出来なかった。
漫画喫茶には寄らないことにした。
もうあの狭さは嫌だし、寄っていると、一週間で街を回りきれず屋上での別れも間に合わない。
僕達は、次の街へ行ってからホテルに泊まることにした。
ホテルといっても、勿論いやらしい方ではない。
二人分の予約をし、一人で泊まった。
ホテルが初めてだったらしい彼女は浴衣に着替えてベットに潜り込んだり、やんちゃをして楽しんでいるようだった。
でもやはり、時折ちくりと胸が痛んだ。
涙をこらえるのも必死だった。
彼女は、いなくなってしまうのだ。
僕が、背中を押したから。
でも、その思いが僕を支配することはなかった。
古傷のように時折痛むだけだ。
何故なら、これが二人の望みだから。
「相沢さん……これでいいの?本当に」
努力して落ち着こうとするほど裏返る声。
僕は恥ずかしくなって枕に顔をうずめた。
「あなたがもう二度と私を忘れないための旅よ」
彼女は、意地悪く笑った。
自分の家で少しの間暮らして、共に時間を過ごしたはずなのにとびきり彼女との時間を大切に思える。
まるで今恋が始まったかのような、そんな錯覚。恋焦がれた人を、やっとこの手で幸せにできそうな感覚。
たまらず僕は震える。顔を上げると、片方のベッドに横たわってまだ意地悪く僕を眺める相沢百合花がいる。僕は、気恥ずかしくて相変わらず目をそらしてしまう。
「うすいくん」
彼女が、ゆっくりと手招きをした。それを見た瞬間、僕は思わず生唾を飲み込んだ。本当にこういう時って、生唾を飲み込むんだ。
その狼狽える様子を見て、楽しげに笑う相沢さん。
男らしく自分の布団を剥ぎ、彼女を見つめ返す。すると、彼女はぎょっとして布団に潜り込んだ。
「相沢さん」
布団の上から話しかけるが、反応がない。
「相沢さん、どうしたの?」
布団をぎゅっと握り締める音が聞こえる。
僕は相変わらず、彼女の感情が揺れ動くのを見るのが好きな悪趣味な人間のようだ。
しかし、未だかつて触れたことのない彼女の髪に触れようと手を伸ばしたが、僕の手はぴくりとも動かない。
気づくと、またじとっとした汗が手の中に溜まっていた。
少し年上になってしまった僕だって、やっぱり彼女のぬくもりに触れることを怖がっている。
「手を」
しばしの沈黙の後、相沢さんが布団から手だけを出してくる。
白く、甘そうな手は僕の手を探り当て、重なった。
残酷な温かさが、僕の手に広がってゆく。
この温もりは、もうすぐ消えてしまうのだ。ああ、これからいくらだって幸せにしてあげられるかもしれないのに。
そんなこと何回も何回も考えては浮かんでいるのに、僕の心はまだそれを反芻する。
あの頃の僕だったら、きっとこの状況に耐え切れず逃げ出しただろう。
だけど今、この手を握り返すことができる。そして、彼女の心に触れることもできる。
「ねえ、相沢さん」
「……なあに?」
「前髪を、切ってもらえる?」
僕は立ち上がり、大雑把に詰め込んだ旅行鞄の中から、小さな鋏と櫛を取り出した。
このぐらいの鋏でもきっと相沢さんは上手く切ってくれるだろう。
ゆっくりと這い出てきた相沢さんは、鋏を手に取って笑った。
「あなたって本当に変わったわね」
「ほんとにね」
彼女の楽しげな様子が、眉宇に漂う。
夢の中のだけれど、もし夢であるなら彼女を生かしておいてほしい。
都合よく、屈曲した夢へと変わってほしい。
なんて、まだこの手に彼女の背中を押した感触を残しているのに。
ドレッサーの上に置いてあった新聞を床に広げて、ベッドに腰掛ける。
相沢さんはそんな僕の前に立ち、鋏をカシャカシャと鳴らしてみせた。
「どれくらい切るの?」
「前に切ってくれた時と同じくらい」
「あまり切り過ぎないようにするわ」
そして、あの時のように彼女の指が僕の髪の毛に触れる。
その指が髪を梳くと、たまらなく愛おしい気持ちが膨れ上がる。その気持ちを噛み締めるように僕は目を瞑った。
……ああ、代わりに死にたい。
僕はもう死んでもいいから、相沢さんは生きていてほしいな。
「うすいくん」
相沢さんは、揺れる僕の背中を優しくさすった。
涙がとめどなく頬を伝う。
死にたい、死にたい、死にたい。
彼女の代わりに、何度でも死にたい。
二度も彼女が痛い目に遭うのなら、代わりに何度でも、僕が死にたい。
……そんなの、僕の自己満足で、我侭だ。
だってそんなこと願っても叶わないことくらい、僕は分かっている。
でもこの先僕だけがどんどん大人になって、歳を重ねていくことに耐えられないような気がした。
顔を手で覆うと、水分がひたすらに染み込んでくる。このまま泣き続けて、死にたい。
「あなたが悲しむことはなにもないわ」
「この先、ずっと……ずっと相沢さんがいないなんて」
「大丈夫よ」
「大丈夫なんかじゃ……」
「どうして?」
「毎日、毎日きっと、死にたいって思うんだ」
「……その時は死ねばいい」
……私みたいに、と彼女は歪に笑った。
親孝行者だった僕は、遠い昔に置いてきたようだ。
「死にたい?」
その問い掛けに、僕は頷く。
「……分かったわ。今度は私が背中を押してあげる」
「そんなこと、させられない」
「道連れにしてあげる」
「……駄目だ」
「いいじゃない、きっと警察が不思議に思って自殺認定してくれるわよ」
とうとう何も言えなくなった僕の頬を、彼女の手が滑ってゆく。温かい。これが幽霊なのか?
「最後の日に屋上に行くわよね?そこで、一緒に死にましょう」
その提案に、僕は静かに頷いて答えた。
僕もあの日の相沢さんのように地面に吸い込まれ、鈍い音を発する物体となるのだ。だが、僕は、完璧に死ぬ。そうでなければならない。
「うすいくん」
「……はい」
「百合花を愛してくれて、ありがとう」
「僕は」
「……前髪、出来たわ」
僕の言葉を遮るように、彼女の言葉が重なる。まるで言わなくてもいい、と言わんばかりだった。
あの頃の僕は自分が満たされる事しか望んでいなかった。触れられない彼女に少しでも触れた気になって、分かった気になって、連れ出して、殺した。
だけど、そのことについて彼女は懺悔を望んでいないようだった。僕も、あの時はごめんだなんてとてもじゃないが口に出せなかった。
「はい、鏡」
小さな鏡を受け取って見てみれば、赤く腫らした目を少し隠すように切られた前髪があった。歪に見えたのは、彼女の手が震えていたからだろう。
あの頃より少しだけふくよかになった頬や、相変わらず渇いた赤い唇。母に似た奥二重の目、父に似た鼻。
少しだけ、支え続けてくれた両親の顔が脳裏に浮かぶ。
二人ともベットに横たわって死んだように動かない息子を長い間支え続けてくれた。
でもどうか、この親不孝者の死を悼まないでほしい。
そんなことを考える僕は本当に薄情な人間なのだが、相沢百合花を想って死ぬ僕は、一番僕らしいと思う。
明日、僕は死ぬ。