夏暁の花|➈
「碓氷君、おはよう」
僕は思わずその場で立ち尽くした。屋上に置き去りにしてしまった次の日も相沢さんは挨拶をしてきた。
まるで昨日のことなどなかったかのような微笑みだった。
唇を歪めたような挨拶でもしてくれれば僕としてはありがたかったのだが、彼女はそういう人間ではなかった。
「おはよう、ございます」
「え、碓氷君?前髪切ったの?」
「あ、うん、まあ」
周囲の人は何故か驚いた顔でそう訪ね……いや、あまりにも僕が貧相な顔をしているから驚いているんだろう。それに愛想よくするのは苦手だ。
前髪は変わっても、そういう僕は変わらない。
「短いほうが似合ってるよーてかマジ小顔!!」
「私でも顔掴めるかもしんないー」
相沢さんの周囲が相変わらず騒がしい。僕はええ、とかいや、とか繰り返しながら応対した。
誕生日まで聞かれて、訳が分からないが相沢さんがとても満足そうだったので良しとした。
僕の世界の中心は相沢さんだ。それが変わらなくてよかった。
昨晩は酷かった。一晩中眠れるはずもなく、現実逃避と祈りを繰り返しながらネットで“喧嘩 許し”などと検索したりしてるうちに朝が来た。アプリに課金して占いもしてもらったが、結果は最悪だった。
「どこで切ったの?」
相沢さんがまだ立ちっぱなしの僕に意地悪く質問する。
「まあ、その辺で」
これ以上騒がしい輪の中にいるのは精神的に不可能だったので、それだけ言ってようやく席に着いた。
今や花丸をなんて書いていいのか分からない程になってしまったので、なんとなく指で筆跡を拭った。
期待する前に幕が開いてしまったような感覚を引きずる僕のように、その筆跡は長く伸びた。
それにしても、眠い。二日連続の徹夜なんて人生で初めてだった。
どれもこれも、目の前で美しい髪の毛を揺らしながら器用に会話する相沢さんのおかげだ。僕はなんて幸せ者なんだろう。
「あの、一架君」
机に突っ伏そうとすると、高野さんがおずおずと話しかけてくる。
眠いせいか、彼女の丸い顔が二重に揺れて見える。
「昼休み、ちょっといい?中庭に来て欲しいの」
「ちょっとだけなら」
「うん……」
どうやら深刻そうだ。けれど、本当に、心の底から、どうでも良かった。
前髪を撫で付けて、僕はその昼休みまで、授業中でさえ耐え切れず眠りについた。
夢の中で相沢さんが僕の頬を撫でたところで飛び起きると、恐ろしい程に時間が経っていた。
鼻腔をつく食べ物の匂いが教室中に広がっている。
僕を見張っていたのか、高野さんが起きた僕に中庭にくるよう目配せして立ち上がった。
二人でなるべく不自然にならない距離を保ちながら歩くが、無言だ。
廊下はざわめいていて、野球拳をしている男子を怪訝そうにしているふりをしている女子を横目にスタスタと歩く。
こんな風景、この高校生活の中で見たことがなかった。僕はいつも俯いて、長い前髪で視界を遮って。急に恥ずかしくなって目やにがついていないか目をこすり、ついでにヨダレのあとがあるかも、と袖で顎を拭った。
「一架君」
人気の少ない中庭に着くなり、僕の少し前を歩いていた高野さんが歩を止める。
「どうしたの、高野さん」
「その前髪、相沢さんに切ってもらったって……本当?」
一瞬にして背筋が凍る。なんと答えたら良いのか言い淀んでいるうちに、高野さんの質問は肯定されてしまった。
僕よりも大分小さい高野さんが涙目になりながら見上げてくる。これが他の男だったら……なんて、何回考えただろう。
「えっと、何で?」
「相沢さんが私にそう言った」
「いつ?」
「今朝、私の席の前を通るついでに。今日碓氷君を見てきっと驚くわって」
僕と高野さんが友人と知っての事だろうが、なんとなく相沢さんらしくないなと思った。前髪の件は、未来永劫に二人だけの秘密だと思い込んでいたからかも知れないが、どことなく違和感を感じる。
相沢百合花はそういう人間だっただろうか?
ぼうっと考えに耽るぼくが気に食わなかったのか、高野さんの表情が固くなる。僕はここで前髪を切ってもらったことを、肯定すべきなのか?引っ掛けか何かではないか?とも思ったが、不思議と回答は口から零れ出た。
「そうだね。昨日相沢さんに切ってもらった」
「どうして、いつの間にそんなに仲良くなったの」
「僕にも分からないよ。相沢さんは誰にでも親切だから」
「でも髪を切るなんてありえない。何で美容院に行かなかったの?」
「すごくタイミングよく、前髪を切ってもらえることになったから」
「それにしてもおかしくない?」
「何がおかしいのか分からない」
「だって……」
尋問が続く。高野さんは字のごとく鬼のような形相で僕を睨み続けていた。そんな高野さんに、辟易せざるを得ない。彼女と友人でいるのも今日が最後なんだろうな、と思った時だった。
「私、こんなに一架君のこと好きなのに!!」
「……は?」
「は?って……酷くない?」
「ごめん、つい」
喋れば喋るほど本音が出てしまう。ありえない、何を言っているんだろう。こんなに一架君のこと好き?高野さんが、僕のことを?
中学時代のことを思い出して、僕は眉間にシワを寄せてしまった。告白されて、良かったことなんて一度もない。全てが面倒な展開になってしまう。
勿論僕のアフターケアが悪いだとか、そういう事は承知だ。けれど、だからといって特段何かしたりすることができない。
どうせ何をしても、傷つけるだけなんだ。恋愛をしたことのない僕にだってそれくらいは分かる。
「一架君も、相沢さんが好きなんでしょ。ああいう美人が好きなんでしょ」
「……いい加減にしてくれる?」
「私、諦めないからね」
遂にほろほろと涙を流した高野さんは、それだけ言って去ってくれた。ああ、良かった。
僕の心は妙に冷めていた。好き、でなんて言葉でこの気持ちを表現された事に嫌悪感が募ってしょうがない。これだから相沢百合花以外の女は駄目なんだ。
今すぐにでも学校から立ち去りたかったが、僕の帰る場所は相沢百合花のいる教室だけだった。
「それで?」
「それだけで終わったよ」
夕方、驚くことに今日も二人で屋上に座り込んでいた。今日は相沢さんからのお誘いだった。こっそり放課後屋上に、と書いて渡された紙は家宝にしようと思う。
「私は別にいいわよ、他の人にばらされたって」
「まさか、駄目だよ」
「どうして?」
「殺されるかも」
僕みたいな奴に、と言いかけてそっと口を噤んだ。相沢さんは心から楽しそうに笑った。
この学校に、校外にだって僕みたいに相沢さんを見ている人間がいるかも知れないのだ。それに、注目を浴びることになってしまったら学校に来るのが酷く億劫になるだろう。
それでも僕はあの時、高野さん相手に否定する気になれなかった。否定してしまえば、昨日の出来事が泡のように消えてしまいそうになる。
相沢さんが静かに笑って、その場で座り直した。それを横目でチラリと確認すると、目が合ってしまった。
深い瞳の奥に一瞬引きずり込まれる。が、顔が熱くなったのを感じてやっぱり視線を逸らした。
「相沢さんは、どうして僕に親切にしてくれるんですか」
「あなたといると楽だから」
まあそうか、と一人頷く。
僕は一日生きてたって人に話したくなるような愚痴や楽しかったことはそうそうない。平凡に何ともない時間を過ごしている。
強いて言うなら、相沢さんが僕の前の席に座って笑っていることだけは、毎日幸せに思っている。
更に言うなら、こうやって会話していることが奇跡だとも思っている。きっと僕の人生のピークは今だ。
「相沢さんって一人の時間あるの?」
「寝る前くらいね、貴方と違って……じゃあ、私お先に失礼するわ」
「はい、また」
相沢さんは今日も僕より早く鞄を手にする。ちょうど運動部の声に混じって、どこからか五時を知らせる童謡が聴こえてきた。
そして、僕たちは繰り返した。晴れの日はよく屋上へのお誘いがくる日々で、その度に取り留めのない話をする。それが僕らの日課であり、毎日彼女が五時を待っている事も気づくようになる。
その理由は、聞けないままで。