夏暁の花|⑬
相沢さんは、悲しそうな顔をしていた。
本当はもっと複雑な表情なんだろうけれど、僕の語彙力はこんなもんだ。
さて。
僕はすくっと立ち上がる。
「ごめんね、相沢さん。足の裏怪我したでしょう」
「……コンクリート続きだったから、そうでもないわ」
「とりあえず、僕の家に行こう。他に行くところもないし。さっきの僕みたいにこっそり入れると思う」
裸足と乱れた寝巻きを指差して、テキパキと僕は今後の事を考える。
相沢さんは、もう家に帰れないだろう。
なら、選択肢は一つだった。
「しばらくしたら、逃げよう」
「……本気で言ってるの?救ってくれるの?」
「救えるような人間に、なるよ」
「嘘よ」
「嘘だと思ったら殺してもいい」
相沢さんはまた複雑な表情を作って、口を閉じた。
「きっと、もう通報されてると思う。早く僕の家に行って、少し休んだら逃げよう。準備は僕が全部する」
今度はしくしくと泣き出した相沢さんを宥める。
足裏は大丈夫だと言うので、速歩で家へと向かった。
家にはまず僕一人で入る。
相沢さんには申し訳ないけれど、庭で待機してもらうことにした。
携帯を見ると、まだ八時半だったので僕は何事もなかったかのように帰宅した。
父と母が布団へ入るのは早くても十時を過ぎる。
そんな時間まで彼女を外で待たせておくわけにはいかない。
僕はリビングで常に父母の行動を監視していた。
そして、チャンスは訪れた。
母が風呂へ行き、父がトイレへ行ったその数分の間だ。
僕はリビングの窓を開けて彼女を招き入れ、即座に二階の自室へと押し込んだ。
我ながらよくできたと思った。
自室は熱が篭ってむんとしていた。
その感覚は、クローゼットの中の感覚を思い出させた。
それをぐちゃぐちゃに掻き混ぜて頭の隅へ追いやるのに成功した時、彼女は布団へ雪崩込んだ。
「……ごめんなさい、不躾だけどこうさせていて。体も心も整理がつかないままなの」
整理がつかないのはこっちだ、なんて思ったのは僕が悪かった。
ごめんなさい、相沢百合花。
そんな事より、自室に相沢百合花がいることが不可解すぎて、頭の中を曖昧にさせていた。
このベッドは、一生買い換えないだろう。
この記憶も、一生残しておけるだろう。
彼女がそうしている間、僕は怪しまれないようリュックにありとあらゆる旅行グッズを詰めた。
貯金も多少はある、住み込みで働かせてもらえる所を探そう。大丈夫だ、だって僕と相沢さんだもの。
親が寝静まると、食料を詰め始めた。
といっても僕が買いだめしていたチョコだ。金色のシールが出るまで買おうと決めた高校一年の頃から、未だに買っている。
そこでようやく起き上がった相沢さんが暗闇の中でのそりと動き始めた。
足の裏が気になるらしい。
「消毒液、持ってこようか」
「ううん、靴どうしようかしらと思って」
「親のやつを履いていきなよ。きつくなければいいけど」
僕は相沢さんになるべくタイトなティーシャツとスキニーを手渡す。
足もそうだが、寝巻きのままでは逃げられない。
彼女は気だるそうに立ち上がって、僕の死角で着替え始めた。
「ねえ、このまま私達……どうなるの?」
「大丈夫だよ、相沢さんは新しく人生をやり直すんだ」
「嘘よ、そんなこと出来るはずない」
「相沢百合花として」
「その名前を呼ばないで!!」
「それを拒否してる限り、相沢さんは父親の味方なんだ。僕にあんなもの見せたくせに」
相沢さんが口を噤む。それを確認して、僕は時計を見た。
「夜が明けたら行こう。相沢さん」
僕達は夜明けを待ち、始発が出るまで家で過ごした。彼女は新しい生活に希望的観測を持ち始めたのか、やりたい事をぼつぼつと語り始めた。
静かに興奮する彼女を見て、僕は間違っていなかったんだと嬉しくなった。
夜明けはいつになく眩しかった。
静かな日の出が僕達を守ってくれている気さえした。
何回か道を遠回りしながら駅についた。
興奮と緊張で、僕は震えていた。
大変なことをしてしまっている。
そんなこと、分かっている。
それでもこの小柄で華奢な体に、もう汚い何もかもが触れないように、ただそれだけを願って飛び出た。
全てを捨てる覚悟だった。
彼女も勿論そうだ。
ベタかもしれないけれど、僕達は一番遠くの切符を買った。
目の下に隈を作っている相沢さんはとても楽しそうに笑っていた。
「逃避行、成功ね」
電車に乗り込むなり勝ち誇こった様子でこっちを見つめる彼女は、悪い国から飛び出した女王様だった。
ゆらゆらとした眠気の中、遠い、遠い街に着いた。
セミの鳴き声がうるさい街を、僕達は散策した。
そこは片田舎の、田んぼが多い場所だった。
逃亡の次のすることは……住む場所と仕事を探すことだ。
勿論彼女にそんなことはさせない。
というか、それは至極無理なことだ。なんたって彼女は今身分証は勿論、一円だって持ち合わせていないのだ。
全ては僕に委ねられている。
早速、僕達はタウン誌を手に入れてから漫画喫茶に入った。
「ねえ碓氷君、このチョコ大量にあるけど貴方の趣味?」
「金色のシールが出るまで買ってるんだけど、未だに出たことがないんだ」
それだけ答えて、今後について猛烈に頭を働かせていたけれど、良いアイディアはあまり浮かんでこなかった。
住所もない未成人には厳しい世の中だ。
それだけじゃない。
住み込みで働かせてもらえそうな場所を探し回ったが、どこも不審そうに声を低くして断られた。
「見て、あれ」
相変わらず暑い街の中を歩いていると、彼女が女生徒達を指さした。
中学生?高校生だろうか?今は夏休み真っ最中だから、どっちにしても部活か補講にでも行くのだろう。
何が楽しいのか、ケタケタと笑いながら目の前を闊歩していく。
相沢さんは、それを眺め続けていた。
考えていることくらい分かる、自分にだってあんな青春を送れたかもしれないのに、に違いない。
「そんなこと考えたって……」
僕ははっとして口を噤んだ。そのまま汗を拭うフリをして口元を拭う。
荷物を詰め込んだリュックの紐が肩に食い込んで、痛む。そして、酷く暑い。暑くてたまらない。汗が止まらない。
女生徒達が蜃気楼に飲まれていった頃、相沢さんはまた歩き出した。
まるで、くだらない、と言うがごとく速足だ。
そして僕達は、追っ手が来ないよう、また電車に乗って、違う街に移る。
「もう少し人目につかなそうな町に行きましょう」
「相沢さんがそうしたいの?」
「うん……人が多い場所はやっぱり怖いわ」
「分かった」
……さっきみたいな女生徒を見たくないってだけなくせに。
寝泊りは漫画喫茶でする生活が続いた。
それでも彼女は終始楽しそうに僕を揺り起こしては、ネットの記事を僕に伝えたりした。
時に漫画を読んだり、時間を気にせず過ごしたり、例えばそんな普通の日常が彼女を楽しませているのかと思うと、不思議な気持ちになった。
狭い空間で、彼女と触れ合わないように、彼女を見守った。
ただ、汚く破れた革のソファーで寝ている彼女だけは視界に入れないようにしていた気がする。
気高いお姫様が、なんでこんな所で生活をする必要がある?
ありきたりな表現だけれど、時々これは夢なんじゃないかと思う時がある。
遠い存在で有り続けた相沢さんが、こんなにも近くで、堕落した生活を送っている。
それは酷くちぐはぐで……いや、何が原因かはわかっている。
僕の中の、相沢さんへの気持ちが変化しているからだ。
媚従い、散漫な彼女の動きに振り回され、心を焦がした日々が懐かしくてたまらない。
あの塗り固められた微笑み、一瞬だけ浮かぶ怒り、自分だけが不幸だと思ってやまない傲慢な彼女だけが僕の世界だった。
じゃあ今の僕の世界はどうなっている?
触れようとすればいつだって触れられる位置に居て、無邪気に笑い、どこの誰がここで射精したか分からないような漫画喫茶の部屋で寝転び、時折不安な顔を見せるが、それはとても素直な表情で。
……そんな彼女を幸せにしたい。なんていうのは嘘です。
「ねえ」
ふと目を覚ました彼女が、弱々しく僕に声をかける。
体育座りしてふさぎ込んでいた僕の目には、涙が溜まっていた。
「楽しい夏休みね」
そう言う相沢さんに、何もしてあげることなんかできなかった。
住む場所も見つからない、お金もいつか底をつきる。それを分かっている相沢さんが、働こうとネットで職場を探しているのも知っている。
身分証もないくせに。
どうして、どうして上手くいかないんだ?
彼女と一緒なら、どんな事だって乗り越えて生きていけると思っていたのに。
何もうまくいかなかった。通報されるのが怖くて、見つかるのが怖くて、とにかく隠れた。日中は暑くて倒れそうな中、足を進めて移動した。
段々とノイローゼ気味になっていく僕に気づかないふりをした相沢さんが、楽しい話題を僕に吹っかける。
けれど、僕は情けなくて涙を流すことしかできなかった。
なんとかしなければと思えば思うほど、僕は一緒にいるのが辛くなる。
狭いネットカフェ。
僕たちの将来。
逃避行は成功しないこと。
終わってしまうこと。
溢れる焦燥感。
でも、きっとなんとか……なるのはいつなんだ?
僕達は定期的にネットカフェを転々とした。
彼女の美貌を隠すために買った深い帽子がもう馴染み始めた頃、寝静まった彼女に触れようとした。
触れられるはずなんか、なかった。
僕はまた静かに泣いた。
彼女の白い頬に、雫が落ちただけだった。
どこへ行けば彼女を助けられるんだ?
なんだか、悪いテストの点数をずっと突きつけられているような、そんな気分が続いた。
それでも彼女は、笑っていた。
「碓氷君、ねえ、碓氷君……」