夏暁の花|小説⑤
「一架君、これってさー……」
次の日の昼休み、友人に勉強を教えている途中での事だった。次の数学でミニテストがあるということで、クラスではちょっとした勉強会があちらこちらで開かれている。
そんな中また高野さんが碓氷君に話しかけている、しかも今日は昨日と違って下の名前で呼んでいる。
いつの間にそんなに進展したんだろう、昨日上手く溶かしたはずのイライラが蘇ってくる。
「相沢ちゃんありがと、ここからは一人で頑張る!!」
「そっか、じゃあこの問題からもう一回頑張ってみて」
友人はそのまま机に突っ伏したようにしてガリガリと問題を解きだした。
馬鹿みたい、そんなに頑張ったってあなたは要領が悪いから全部無駄なのに。
心のどこかで毒づくのは楽だ、多分みんなだってやってるし私だって誰かに毒づかれて生きてきた。
生まれてこの方疎ましく思われなかった人なんてこの世にいない。だからそれを怖がって生きるなんて、馬鹿だ。
「あ、ねえねえ相沢さん」
高野さんだ。思わず考え込んで留守になっていた手元がピクリと反応する。
「なあに、高野さん」
上半身を後ろに向けて、碓氷君の横に並ぶようにして屈んでいる高野さんを視線の中に捉える。当の碓氷君はノートを広げて問題を解いていた。
……あ、机の上の花マルが一個増えてる。
「ここ、二人で考えても分からないの。相沢さん分かる?」
ぶつけられたのは、かなり難しい文章問題だった。昨晩復習したけど理解するのにかなり手間取った。
碓氷君はいつも通り俯いて、前髪を顔にかけている。シャーペンを握る右手だけが少し忙しない。
「ここね、まずこの公式を使うの」
わざと碓氷君の方のノートに回答を書く。彼の字は几帳面で、繊細で、綺麗だった。
でも私の字はもっと綺麗でしょう?見せつけるように、走り書きとは思わせない字を書く。
「相沢さんってやっぱり才色兼備なんだねー」
「そんな事ないよ、出来ない事も沢山あるし」
「えー?いいなあ、相沢さんくらいよく出来た人間だったら苦労しそうにないよね。友達も多いし」
「……そんな、私だって」
きっとあなたよりは数倍苦労してるし一人になりたい時もあるわよ。
ぐっと続きを我慢して口を噤んだ。
上辺だけの言葉に毒を混ぜ込んでいる事は重々に伝わって来るし、それに反論しても何の得もしない。むしろ被害者でいるほうが楽だ。
それが分からない人間は、馬鹿だ。
「相沢さんは」
おもむろに顔を上げて、碓氷君が呟く。
「え?」
「相沢さんは……相沢さんだって、色々大変な思いはしてるんじゃ、ないかな……」
なによ、それ。
なによ、なによ、今なんて言った?
そんな上っ面な同情で、馬鹿に、しないで。
「碓氷君、ありがとう」
思いとは裏腹に、ありきたりな表情と言葉で返す。すると碓氷君は酷く傷ついたような顔をして顔を歪めた。
何がそうさせているのか、さっぱり分からない。
そういえば碓氷君のことなんて何も知らない事に気付く。私の中に特記事項なんて、何もない。
「……ごめん、変なこと言って。問題の続き、いい?」
一歩先に大人の対応を取られた気がして癪に障った。それでも言われるがままに回答の続きを書く。高野さんは面白くなさそうにそれを眺め、碓氷君は今までよりほんの少し顔を上げて耳を傾けてきた。
そんな中でも、目の前の男は一体何を思ってあんなことを言ったのかがいつまでも引っかかった。
何気ないただのフォローだったのだろう。それでも私の事をさも理解しているように呟いた。
今まであんなことを言われたことなんて一度もなかった。
馬鹿に、しないで。
ふいに涙が目に溜まる。必死にシャーペンを動かしながら目の前の問題と説明に集中しようと試みたが、どうしても脳内を掻き回される。
人前で泣くのは行事の時だけ、周りに同調するため。
そう決めていたのに。
「高野さんごめん、そういえばさっき文芸部のなんとかさんって人が呼びに来てたの思い出した。ほら、さっき高野さんが職員室に行ってる間に」
「ほんと?なんだろう、ちょっと行ってくるね」
高野さんは慌ただしく教室をあとにした。ちょうどいい、私も職員室に用事があるとでも言って教室を出よう。
「……相沢さん、これ」
しかし、私が言葉を発するよりも先に碓氷君がポケットから何かを出してきた。
「これって……」
「合鍵。屋上の」
いつもよりもっとか細く小さな声だった。間違いなく何かを覚悟して密告する声だ。私は予想だにしなかった話に思わず涙を引っ込める。そして、鍵を隠すかのようにして手で覆った。
「どうしてこんなもの持ってるの?」
「うん……内緒だけど、合鍵二本作ってあるから、良かったら一本どうかなって」
「何で私に?」
「いつも、」
「いつも?」
「いつも、相沢さんの周りって騒がしいから……」
「まあ、そうかもしれないけど」
「でも、全然楽しそうじゃない気がして……ごめん」
「……さっきから、私のことをさも分かっているかのように言うのね」
「ご、ごめん……ごめん……」
「……ありがとう、貰っておくわ」
碓氷君が顔を上げてはっとした表情で私を見つめる。
やっぱり綺麗な顔をしていた。太く、手をつけていなそうな眉毛も、ぱっちり二重の目も、ぽってりとした唇も、美しい曲線の輪郭も、どこを切り取っても整った顔をしている。
どうして前髪で隠しているんだろうか、自分で自分の価値に気づいていないのだろうか。
……碓氷君はきっと私の事を好いている、少なくとも間違いなく嫌ってはいない。実際、よく私のことを見て表面だけでも理解している。
ふと、邪な考えが脳裏をよぎった。
今すぐにでも目の前の男を、自分の「物」にしたい。
私は鍵をポーチにしまい、カバンの奥深くに潜り込ませた。
そして放課後、どうしても抑えきれなくなって私は屋上の鍵を回した。
茉莉花は買い物を放棄してこんな事をしないだろう。
そのせいか屋上にたどり着くまでの鼓動が異常に早く感じた。誰にも見つからないよう一段一段の足音に気をつけて昇り、ドアノブを開けたその瞬間。
「わ……」
思わず感嘆の呟きが口をついて出てきた。掃除の手入れが行き届いてないものの、空の近さに驚く。
風も強く、春の陽気が失われていくような寒さだったので少しばかり体を縮こませた。
いっちにーさんし、と大きな運動部の声が響く中、私は歩を進めた。見回してみたが、碓氷君はいない。
あまり柵の方に近づくと見つかりそうだったので、ドアの周りをぐるっと一周してみる。ここででんぐり返しなんかしても、きっと誰にも見つからない……なんて馬鹿な考えがよぎって、急に笑いがこみ上げてきた。
ここで大笑いしたって、誰も知らない。私は思う存分、声を上げた。それがまた可笑しくて、余計に笑いが止まらない。座り込んで、挙句の果てには砂が積もったコンクリートの上に丸まって笑い転げた。
長い髪にヨダレが垂れても、制服や上履きが汚れても、しばらくそうしていた。なんだかその間だけ、全てが馬鹿らしく思えた。だが、父が明日休みという事を思い出して我に返る。
「あーーーーーーーーーーーーーー……」
長いため息混じりの声が出てくる。
明日、父は休みだ。休みの日の前日は必ずセックスする。父を男として感じずにはいられない時間だ。
出たり入ったり、舐めたり舐められたり、何が気持ちいいのかは未だに分からない。父は母を愛するあまり、私が生まれてからパイプカットをしたそうで、子供はできない。それに、私が妊娠なんかしたらきっと父は死ぬ。
泥の中を泳いでいるみたいだ、と昔は思った。
でも誰も助けてなんかくれなくて、私も助けられる気なんかなくて、だから上手く泳いでいるつもりでいた。
それでも被害者のような気分でリストカットを繰り返ししていた事もある。
それもなんだか急に馬鹿らしくなって、辞めた。跡ばかりが私の体に残る。
一生、父が死ぬまで私は、泥の中だ。
はあ、とため息を区切ったときに思い浮かんだのは碓氷君だった。彼は、悔しいけれど、私の感情を見抜いている。
屋上で笑い転げたりため息をついたり、父親とセックスしていることなんか知らないのだろうけど、というかそんな事を知ったら私の事を嫌いになるのだろうけど。
そうだ、私は誰かに一生、本当の意味で、まるごと、好かれることなんてないのだ。
そんな事、とうの昔に諦めた。
「本当、なんなのよ……アイツ」
なんだか胸が詰まるような気持ちになって、私は寝返りを打った。