夏暁の花|⑭

「ね、碓氷君。いい夏だったわ。本当にありがとう」

 ずっと楽しそうだった相沢百合花が、遂にそう言って、金色のシールを僕に手渡した。
憔悴していく僕を見ながら、もう少し、もう少しの夏休みを、と。
彼女なら、絶対にそう思っていたに違いない。

僕は静かに頷いた。
どんなお咎めを受けようとも、もうこれ以上一緒にはいられなかった。

本当は、崇拝していた彼女が僕なんかの側にいることが土台無理だった。
彼女を「普通」の女の子にしてはいけなかった。

神様は、神様のままで良かった。

そして僕らはチケットを買った。
帰りは特急車だった。

「碓氷君、帰ったらお願いがあるの」
「……何?」
「とっても簡単なお願いよ」

僕は彼女の左腕を見た。
深い深い赤が、そこにはあった。

いつ死のうとしたのだろう。
そんなものじゃ死ねないのに、浅はかだ。
やめてほしい、これ以上「普通」な相沢百合花なんか見たくない。

 夕刻、帽子を目深に被った彼女と、無事改札を通過する。
世間の、本当の夏休みも終わろうとしていた。

「十八時に屋上に集合しましょう」

ちょっと気怠そうな、そんな声だった。
乱雑な生活をしていたにも関わらず変わらない美貌は、本当に素晴らしいと思った。
しかし、彼女はそれだけ言い残して、呆気なく去っていった。

 僕はようやく家に帰った。
誰もいない家は暑く、じりじりと焼けそうな陽光に当てられていた。
どれくらいぶりかなんて覚えてない。

部屋には、彼女が横たわったベッド。
僕は暑さで汗をたれながしながらまた泣き、ハッとした。

もう二度と彼女を助けることなんかできないのだ。
彼女を助けたかったのに、方法ならほかにもいくらでもあったのに。

……十八時まであと一時間ある。
僕は金色のシールを見つめ、すぐに家を出た。

 そしてある所に寄ってから、早めに屋上へと着いた。
がざがさとうるさい荷物は、芳醇な香りを漂わせていた。

見計らったように、校舎はがらんとしていて誰もいない。
部活をしている生徒も、先生も、いない。
強い西日だけが僕を見ている。

 相沢百合花のお願いの内容は、なんとなく分かっていた。
それでも僕はそのお願いを拒否したい。
茉莉花として生きる必要なんて、もうないのだから。
彼女の今後の行き先はよく分からない。でも調べれば、きっと分かるはずなんだ。

校庭に咲いている向日葵の影に、相沢さんが見えた。
腕時計で時間を確かめると、十八時を少し過ぎていた。

かつん、かつんと彼女が階段を上がってくる音がする。
僕は口から心臓が出そうなほど緊張していた。

逃避行中、ずっと笑っていた相沢百合花。
信用しきった顔で寝静まっていた相沢百合花。
憔悴した僕に優しい言葉を投げつける相沢百合花。

全てがごちゃまぜになって僕の頭の中に浮かんできた。
また、涙がこぼれた。

「遅れてごめんなさい……え?それ……」

相沢さんが、無表情でそう問いかける。
視線は僕の手荷物に注がれていた。

真っ白な百合の花束だった。

「……百合だよ」
「やめてよ!百合花は、百合花は……いないのよ!!」

僕は、その場で立ち尽くした。
何を期待していたかも忘れてしまいそうになった。

「だって、相沢さんは」
「茉莉花よ。そう言ったじゃない!!」

あなたは……。

僕が願ってたことは何だったんだろう?
そうだ、あなたが相沢百合花で有り続けることだったのかもしれない。
きっと、僕の女神で有り続けてくれることだったんだ。
父親とセックスするような馬鹿な女なんか、相沢さんじゃないから。

ねえ、そうだよね。

 乱雑に花束を地面に置いた。その時、ポケットから金のシールが落ちてきた。
それを拾い上げるのを横目に、相沢さんは柵のほうに向かって歩き始めた。

「私、あなたとの夏休みはとても楽しかった。あの時は百合花でいたかもしれないわ」

バレバレのお世辞を口にしながら、相沢さんが、柵に足を掛ける。
それを見て、僕は思わず駆け寄って先に柵を越えた。

「相沢さん、最後に何か言いたいことは」

柵を乗り越えてきた彼女に、問いかける。
相沢さんは、両手で顔を撫で摩った。

痛々しい左腕が、目に入る。

「茉莉花を、私を、殺して」
「分かった」
「……さようなら」
「さようなら。茉莉花なんか……大嫌いだ」

 彼女の背中をとん、と軽く押す。それだけで、彼女は地面に吸い込まれていった。
すぐに、鈍い音が下から聞こえてきた。

僕の心はどこか閉ざされているのか、何も感じることはできなかった。
ただ、最近ずっと緩い涙腺から水分が流れた。

柵を乗り越えて屋上側に戻ってくると、散り散りになった百合の花が無残に風に舞っていた。

さようなら、相沢茉莉花。

永遠に存在しない、たった一人の女の子。

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