夏暁の花|⑦
「一架くん、これってさ、どうやって解くの?」
数学の問題を解いていると、今日も高野さんに話しかけられる。僕は一人でいる方が断然好きなのだが、円満な一年間を過ごすには彼女を無視することができなかった。
「それ、僕も分からなかった。ごめん」
今日は数学のミニテストがあるということで、高野さんはノートを持って僕の横に屈みこんでガリガリと問題を解き始めた。
ふんわりと高野さんのいい匂いがする。けれど、僕はやっぱりときめいたりは出来なかった。
人間なら美しいものを見ていたいと思うのは普通だと思う。
僕は美しくて、優等生で、今だって数学を周りに教えている、そんな相沢百合花にしか興味がない。
ちなみに、作り笑いを浮かべる相沢百合花も好きだ。彼女はいつも誰にだって笑顔で接する。何かを考え込んでいたって、誰かに話しかけられれれば彼女は笑う。
ああ、全人類から君は幸せだなって言ってもらいたい程、何度だって言えるが、そんな彼女にしか興味がないことが幸せなのだ。
「あ、ねえねえ相沢さん」
高野さんの呼びかけに、喉がひくついた。最近、相沢百合花の名前を耳にするだけでえずく。
僕は反射的に、左耳に寄せていた髪の毛を下ろした。そして、問題に集中しているフリをする。
「はい、高野さん」
「ここ、二人で考えても分からないの。相沢さん分かる?」
違う、違う、二人でなど考えてない。何を言っているんだ。僕は訂正したくなったがそれも何だか可笑しくて酷く落胆した。
「ここね、まずこの公式を使うの」
ちょっといい?という言葉に続いて、相沢さんは何故か僕のノートにつらつらと数式を書き出した。僕は黙って彼女の陶器のように滑らかな手を眺めた。
相沢百合花が、僕のノートに、世界中の誰よりも綺麗な字で、僕のノートに、そう、そんな綺麗な字で書き込むなんて。
「相沢さんってやっぱり才色兼備なんだね」
「そんな事ないよ、出来ない事も沢山あるし」
「えー?いいなあ、相沢さんくらいよく出来た人間だったら苦労しそうにないよね。友達も多いし」
「……そんな、私だって」
僕は不覚にも、ときめいていた。初めて見る相沢百合花の表情が、僕を魅了していた。悲しげで、誰かに気遣う余裕すらない表情を、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ浮かべたのを僕は見逃したりなんかしなかった。
「相沢さんは」
「え?」
「相沢さんは……相沢さんだって、色々大変な思いはしてるんじゃ、ないかな……」
何も分からない馬鹿な高野さんを気遣えなかった相沢さんの代わりに、思わず口をついておせっかいを焼いてしまった。声は震え、手汗が止まらない。
「碓氷君、ありがとう」
相沢さんは、乾いた笑いで返答した。その笑いに、喉の奥でえずいた。
相沢百合花が、僕に怒った。きっと誰も気づいていない。今この瞬間、彼女の怒りに気づけたのは僕だし、その対象は僕だった。
なんて、幸せなんだろう。
もう一度、その顔が見てみたかった。こっそりとポケットの中の鍵を握り締める。これを渡したら、どうなるだろう。僕みたいな人間が、彼女に干渉したらどうなるだろう。この世界は、どうなるんだろう。
そして、涙目になっている相沢さんを見て、僕は高野さんを追い出すことにした。
「高野さんごめん、そういえばさっき文芸部のなんとかさんって人が呼びに来てたの思い出した。ほら、さっき高野さんが職員室に行ってる間に」
「ほんと?なんだろう、ちょっと行ってくるね」
席を立った高野さんも、不穏な空気を察したのか急ぎ足で教室を出て行った。彼女にしてみれば、やってしまった、といったところだろう。
相沢さんが憎まれたり羨望の目で見られたりすることは、日常茶飯事だ。高野さんも目の前で、あんな綺麗な字で数式を書いて問題を解かれれば、普段より多弁になるだろう。だって、相手は相沢さんなのだから。
「……相沢さん、これ」
僕は握り締めていた鍵をこっそりと机上に提示する。
周りにバレないよう、そのまま彼女の手の方に鍵を寄せた。相沢さんも察して鍵を手中に収めてくれた。
「これって……」
「……合鍵。屋上の」
もう一度あの顔が見てみたかった、それだけなのだけれど。
「どうしてこんなもの持ってるの?」
「うん……内緒だけど、合鍵二本作ってあるから、良かったら一本どうかなって」
「何で私に?」
「いつも、」
「いつも?」
「いつも、相沢さんの周りって騒がしいから……」
勿論嘘だ。彼女を気遣う詭弁が欲しいだけだった。
「まあ、そうかもしれないけど」
「でも、全然楽しそうじゃない気がして……ごめん」
「……さっきから、私のことをさも分かっているかのように言うのね」
「ご、ごめん……ごめん……」
「……ありがとう、貰っておくわ」
僕の口はあ、と開いて鯉のように二、三度唇が動いた。
そうだ、僕はこんな風にしてもっと相沢百合花が知りたい。ああ、僕はいつの間にこんなに我儘になってしまったのだろうか。
美しく、気高く、こんな僕から鍵を受け取ってしまうような愚かな彼女のことを、全てを、表情を、中身を、全て知りたい。それを知ってしまっても、僕は彼女を崇拝し続けるだろう。だって彼女はいつだって女神のような存在だ。何があったって、その気高さは変わらない。
相沢さんは体勢を戻して、自分の席へと戻った。
その際に長い髪が揺れて、僕の机に触れる。手を伸ばせば触れることが出来る距離に居る、相沢百合花。それすら愚かに思えて、初めて彼女を“愛しい”と思った。
机の上に花丸を書き足してから、まじまじとノートを見つめる。
その文字の上に指を重ね合わせると、僕は初めてその場で、相沢百合花のことが好きなのだと思い知った。