noteは、もっと自由でいいのだ。
最近、生まれて初めて『天才バカボン』を見た。
YouTubeのTMCアニメ公式チャンネルで、1971年に放送された第1回「バカボン一家だ コニャニャチハ」の動画を見つけたのだ。
天才バカボンといえば、「西から昇ったおひさまが〜東へしずむ〜」でおなじみの主題歌ぐらいしか知らなかった僕は、アニメを見て度肝を抜かれた。これまで見たどんなアニメにも似ても似つかぬ骨董無形な描写がつづいていたからだ。
ハチャメチャなことをしているのに、バカボンのパパは「これでいいのだ」と言っている。人間はもっと自由でいいのかもしれない。『天才バカボン』を見ていると、そう思わせてくれる。
僕は子供のころ、架空の話をするのが好きだった。
論理的な言葉は持ち合わせていなかったので、誰かに何かを説明をするとき物語を作っていたように思う。だから、会話のなかには嘘があった。とてもわかりやすい嘘だ。
小学校の教室では、友達とよく架空の話をしていた。とつぜん宇宙人が現れて地球を征服する話をしたり、透明人間になったがために崖から落ちてしまっても、誰にも気付かれず助けてもらえなかった可哀想な人について話したりした。もちろん空想の話である。
友達はそんな話をとても気に入ってくれていて、もっと聞きたいと言ってくれた。次第に周りにいた別の友達がその話に入ってきて、面白がってくれたこともあった。とにかく小学校までの僕は発想が自由だった。
中学校に入った途端、そういう話はできなくなった。架空の話をしても「何の話?」と一蹴されたり、「それはない」と否定されたりした。さらに友達の中には、言葉の使い方が違うことを指摘する人までいた。
それから、僕は物事を考えてから話すようになった。だんだんと論理的な言葉を覚えていった。
意見を述べるときは、自然と理由を3つくらい考える癖がついた。そうでないと、正しくないような気がした。正しければ正しいほど、その話は面白くないのだった。
今日、カフェでこの文章を書いていて、気づいたことがある。noteに物語やエッセイを書いているとき、僕は小学生のころの自由な自分にもどっているような気がするということ。
noteは文章さえちゃんと読めれば、自由に書いたっていい。宇宙人だって透明人間だって、出てきてもいい。バカボンのパパのように自由でいい。それでいいのだ。
2022.7.24.