温かいうちに、文章を紡ぐ。
パソコンの前に座り、noteの編集画面を開き、文章を書く。1行書いたと思ったら、文を修正し、また1行書く。途中で文章が横道にずれていることに気づくと、段落ごと削除する。
noteに文章を投稿し始めたから日から今日まで、これの繰り返しだ。
文章を書き終えると、予約投稿ボタンを押して、記事が投稿されるのを待つ。更新時刻の18時半のまでの間にも、何回か記事を読み直すことがある。ギリギリまで粘る日もある。
更新時刻は過ぎて、とうに記事が読まれているのに、文章を修正する日もある。
当たり前のことだけれど、すでに自分の頭の中にある言葉を文章にしている。だから、自分にとっては読みやすい表現でも、読者にとっては読みにくい場合もある。
noteを書き終えた瞬間は、自分の中に熱がこもっているので、最高の出来栄えだと過信する。けれど、少し時間を置いて、読み手の温度感まで熱が下がったとき、そうでもないことに気づく。粗が見つかる。
だから、書く時の熱は熱く、読む時の熱はぬるいぐらいがちょうどいい。冷めきってしまったら、直す気も起こらなくなるからだ。
ところで最近、吉本ばななさんのエッセイ集『イヤシノウタ』を読んでいたら、面白い文章を見つけた。
吉本ばななさんは、文章を書くことを桶を作ることに例えている。文章を読んでいる人は、完成する前の文章を知らない。無数の選択肢の中から言葉が選ばれたことを知らない。自分にしかわからない。
けれど、わかる人にはわかる。ゆっくりと時間をかけて紡がれた文章には、特別な色があると僕は思う。
僕が初めて吉本ばななさんを知ったのは、『キッチン』だった。冒頭の文章に強く惹かれたのを今でも覚えている。文章のリズムも心地がいい。
何度も読んでいると、「私はつらくない」という部分が不思議な表現だと気づく。主人公の私(=みかげ)は、台所がこの世で一番好きだと話しているのに、全然楽しそうじゃない。普通に考えると、「私はしあわせだ」と言ってしまいそうなのに、彼女は「つらくない」と言っている。
もちろん真相はわからないけれど、ぱっと思いついた表現ではない気がする。きっと無数の選択肢から紡ぎ出された言葉なのだと思う。
僕は今日もパソコンの前に座って、noteを書く。何度も読み返して、何度も書き直す。たとえ自分しか気づかない些細なことでも、文章を紡いでいくことはつらくない。