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温かいうちに、文章を紡ぐ。

 パソコンの前に座り、noteの編集画面を開き、文章を書く。1行書いたと思ったら、文を修正し、また1行書く。途中で文章が横道にずれていることに気づくと、段落ごと削除する。

 noteに文章を投稿し始めたから日から今日まで、これの繰り返しだ。

 文章を書き終えると、予約投稿ボタンを押して、記事が投稿されるのを待つ。更新時刻の18時半のまでの間にも、何回か記事を読み直すことがある。ギリギリまで粘る日もある。

 更新時刻は過ぎて、とうに記事が読まれているのに、文章を修正する日もある。

 当たり前のことだけれど、すでに自分の頭の中にある言葉を文章にしている。だから、自分にとっては読みやすい表現でも、読者にとっては読みにくい場合もある。

 noteを書き終えた瞬間は、自分の中に熱がこもっているので、最高の出来栄えだと過信する。けれど、少し時間を置いて、読み手の温度感まで熱が下がったとき、そうでもないことに気づく。あらが見つかる。

 だから、書く時の熱は熱く、読む時の熱はぬるいぐらいがちょうどいい。冷めきってしまったら、直す気も起こらなくなるからだ。

 ところで最近、吉本ばななさんのエッセイ集『イヤシノウタ』を読んでいたら、面白い文章を見つけた。

私は職人、桶を作る。
いつも同じようなおけでも、ふと、あるときいいやつができることがある。
だれも違いをわかってくれないけれど、自分にはわかる。
「今日はいい桶できたなあ。家族に見せても『いつもと同じじゃない?』と言われるだけだろうけど、これ、見る人が見たらすぐわかってくれるんだろうなあ。楽しみだな。人生であと何回、こういうのが作れるだろうかなあ」と思いながら見上げる空、いい気持ちでビールを一杯。

吉本ばなな『イヤシノウタ』(新潮文庫) p89より引用

 吉本ばななさんは、文章を書くことを桶を作ることに例えている。文章を読んでいる人は、完成する前の文章を知らない。無数の選択肢の中から言葉が選ばれたことを知らない。自分にしかわからない。

 けれど、わかる人にはわかる。ゆっくりと時間をかけてつむがれた文章には、特別な色があると僕は思う。

 僕が初めて吉本ばななさんを知ったのは、『キッチン』だった。冒頭の文章に強く惹かれたのを今でも覚えている。文章のリズムも心地がいい。

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使い込んであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。

吉本ばなな『キッチン』(角川文庫) p7より引用

 何度も読んでいると、「私はつらくない」という部分が不思議な表現だと気づく。主人公の私(=みかげ)は、台所がこの世で一番好きだと話しているのに、全然楽しそうじゃない。普通に考えると、「私はしあわせだ」と言ってしまいそうなのに、彼女は「つらくない」と言っている。

 もちろん真相はわからないけれど、ぱっと思いついた表現ではない気がする。きっと無数の選択肢から紡ぎ出された言葉なのだと思う。

 僕は今日もパソコンの前に座って、noteを書く。何度も読み返して、何度も書き直す。たとえ自分しか気づかない些細ささいなことでも、文章を紡いでいくことはつらくない。

次に読むなら

世の中には、無限の共通言語があると思うんです。日本語とか英語とかフランス語とか、そういう意味の言語ではなくて、もっと個人的な言語が。吉本ばななさんの著書『とかげ』(新潮文庫)の中に収録されている、短編小説『新婚さん』を読んで、僕は気付かされました。暇なときに、ぜひ記事をご覧ください。

 記事を読みに来てくれて、ありがとうございます。前から書こうと思っていたテーマだったので、今日投稿できてよかったです。最近Twitterの更新を頑張っているのですが、改めてnoteの良さを感じます。字数の制限がないので、思う存分書きたいことが書けるのは最高です。
 明日も18時半に記事を投稿するので、読みに来てください。お待ちしています。また、初めて僕のnoteを読んでくれた人は、ぜひ気軽にフォローしてください。
それでは、また明日!!

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雨宮 大和|エッセイ・短編小説
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