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「文章を書くこと」と「言葉を話すこと」の関係性について。

 noteを書き始めてから、2年と7ヶ月が経ちました。もうこんなにも経ったのかと、時間の流れの早さを実感している今日この頃です。

 最近、改めて初投稿記事を読んでみました。

 初投稿記事『エイプリルフールってウソついていいの?』では、嘘とジョークは違うという話を書きました。

 記事では、まずエイプリルフールの歴史を語り、それからエイプリルフールにまつわる英語表現を紹介し、最後に結論を述べています。

 今考えると、明らかに構成が雑です。
エイプリルフールの歴史はまだ良いとしても、英語表現の紹介は無理やり詰め込んだ感があります。

 そうは言っても、この記事を書くのに10時間以上も費やしました。書きたいことが決まっていても、当時はどうやって書いたら良いのか分からず、何度も頭を抱えていました。

 文章を数行書いては消し、また数行書いては消しを繰り返して、なんとか完成したのがあの記事でした。

 さらに、「エイプリルフール」に関する記事だったので、日付をまたぐ訳にはいかず、投稿ボタンを押したのはギリギリでした。投稿時間の23時57分がそれを物語っています。

 その日から、毎日投稿を始めました。
もちろん、更新ができなかった日はあったし、1ヶ月単位での休止期間を何度も経験しました。でも、noteの記事を書くこと、noteの記事について考えることは、毎日つづけてきました。

 そして、今でも、noteのことで頭がいっぱいです。

「文章を書くこと」と「言葉を話すこと」

 さて、最近、面白いことに気付きました。
それは、「文章を書くこと」と「言葉を話すこと」は繋がっているのではないかということです。

 仮に「書く神経」と「話す神経」があったとすると、それはお互いが作用し合っていて、切っても切れない関係にあると思います。(もちろん、医学的なことは、僕には分かりません。感覚的な話だと受け取ってください)

  実は、振り返ってみると、1年前にも同じようなことを考えていました。

 過去のnote記事を調べてみると、『文章が上手い人は、”文字起こし”できる』というタイトルの記事がありました。

 その記事では、「文章が上手い人は、話し方も上手い」という話を紹介しました。小説家の方のラジオを聴いていて、僕がそう感じたことがきっかけでした。

 また、仲間内での対談企画を例に挙げていました。人によって話し方が異なっており、それを文字に起こすことで、明確に違いが分かるという趣旨の内容になっています。

 対談のメンバーは、僕を除いて3人でした。
(3人だと、正確には対談とは呼べませんが、2人のパターンもあったので、僕たちは対談と呼んでいました)

 一人は、擬音語を多用するタイプ。
彼女はリズミカルに話を展開して、最後に必ずオチをつけていました。

 もう一人は、助詞を多用するタイプ。
「○○て、〇〇〇で、○○○て」といった調子で話を展開していました。

 三人目は、文で区切るタイプ。
「○○○なんです。それから、○○○なんですよね。」といった調子で話を進めていました。

 記事のなかでは、三人目こそが文字起こしの際に修正が必要なく、文章として読めると説明しています。つまり、三人目のタイプの人が文章が上手に書けるタイプだという結論です。

 本当に文章が上手いかどうかは分かりません。これは、あくまで僕の仮説でした。

 けれど、最近になって、自分自身でも実感することが起こりました。

文章を書くことで、話し方が変わった。

 僕はこれまでnoteに文章を書いていくにつれて、自分の書き方の特徴が少しずつ分かるようになりました。

 実際、初投稿記事を読み返してみると、「メッセージは、〇〇です」のように結論を述べたり、「こんなふうに思った人もいますよね?」と共感を誘ったりするような文言がうかがえます。今はこういう書き方はしていませんが、当時はよく使っていた言い回しでした。

 そして、毎日文章と向き合うことで、自分の書き方をつかみ、それを少しずつ変形させ、今のような形に落ち着きました。もちろん、今後も、まだまだ変化していくと思います。

 実はそれに合わせて、僕自身の話し方も変化していました。

 昔からそうなのですが、僕は人の話し方に影響されやすいです。誰かの口癖やイントネーションが知らず知らずの内にうつってしまうことがよくあります。

 まるでギターをチューニングするみたいに、その人の話し方になってしまうのです。

 実際、声変わりをする前の小学生の頃は、声と話し方が友達のそれとあまりにも似ていて、驚かれたことがあります。僕の話し方は、顔を見なければ、違いに気づかないほど似ていたそうです。

 そのため、いつしか、僕には他人の話し方を観察する習慣がつくようになりました。周りの人間がどんな話し方をしているかを意識することで、仮にうつってしまっても、気をつけることができるからです。

 なかなか理解されない話ですが、冗談とかではないです。本当に無意識のうちに、他人の話し方がうつっちゃうんです。

 そして、ごくまれに、誰の話し方でもない、オリジナルの話し方をしている人に出会うことがあります。独特な言葉選び、独特なリズムを持った話し方は、僕にとっては憧れの対象なのです。


 最近、自分の話し方に変化が起こったことに気づきました。今の自分の話し方が誰の話し方にも似ていないのです。なので、初めはそれが何なのか、僕には分かりませんでした。

 でも考えを巡らせているうちに、ようやく分かったのです。

 それは、noteの話し方でした。
僕は、最近、noteに文章を書いているみたいに言葉を話していたのです。

 実際、僕の中には、文章を書くときの心地良いリズムがあります。いつも、それに沿って文章を書いたり、修正したりしています。そして、それが会話をする際でも、再現されていました。

 要するに、noteに文章を書いていくうちに、noteの文章のような話し方になったいたのです。

「書くこと」と「話すこと」の関係性

 僕は、「文章を書くこと」と「言葉を話すこと」が切っても切れない関係性があると考えています。

 僕自身、noteを始めたばかりの頃の記事と比べても、文章はまったく別物だし、同時に話し方も全然違ったものになっています。

 文章の変化、話し方の変化を経験できたのは、noteを書いてきたからです。

 noteを始めて本当に良かったと実感している今日この頃です。

文章が変われば、話し方も変わる。
話し方が変われば、文章も変わる。

2022.11.6.

こんばんは。雨宮 大和あまみや やまとです。

今日は、「書くこと」と「話すこと」の関係性について記事を書きました。実は、この記事を書いているときに、「書くこと」と「読むこと」の関係性についても考えていました。それについても、改めて記事を書きたいと思います。

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雨宮 大和|エッセイ・短編小説
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