実験教室の小さな独裁者。
小学校低学年のころ、理科の実験教室に通っていた。僕の記憶が正しければ、家の近くにある女子高で月に2回、実験教室が開かれていた。
レモン電池を作ったり、地層の勉強をしたり、ドライアイスに触れたりもした。鯛の解剖をした時は、終わったあとにみんなで鯛めしを食べた。実験の内容は、子供たちが喜ぶように細部まで工夫されており、教室はいつも好奇心に満ちていた。
ある日、どんな実験だったかは忘れたが、塩酸を使った実験があった。
先生は「塩酸は危ない液体だから、扱いには気をつけるように」と何度も忠告していた。直接鼻を近づけて匂いを嗅ぐことも危険で、手であおぐようにして匂いを嗅ぐ方法も僕たちに教えてくれた。
実験教室には、お気に入りのバッグを持って行った。深緑色のバッグで、筆箱やノート、配布されるA4サイズの実験資料を入れるのに丁度良い大きさだったので、僕はいつも重宝していた。
それは、ミスタードーナツのキャンペーンでもらったグッズだった。何度も母と通いつめて、スクラッチを何枚もこすった。親切なおばさんにスクラッチを譲ってもらったこともあった。とにかく、苦労して手に入れたバッグだった。
実験は班に分かれて、行われた。僕と同じ班には、クラスメイトのU君がいた。U君は先生の話をあんまり聞いていなかった。僕がノートを取っているあいだも、ずっと下を向いていた。
先生の話が終わると、ようやく実験が始まった。各々の班には実験の補助をしてくれる大人がいて、僕たちを見守ってくれていた。生徒の大半は小学生だったので、実験のやり方を間違えることもあった。それでも補助員さんは、あまり自己主張せず、いつも陰で舵を切ってくれていた。
実験が終盤を迎え、僕が結果をノートにメモしようとした瞬間、その悲劇は起こった。
ふとU君の方に視線を向けると、塩酸の入ったビーカーを持って左右に揺らしていたのである。塩酸を手にしたU君は、強い武器を手にした小さな独裁者になっていた。彼はビーカーを揺らしながら恐怖を煽り、僕たちを脅威にさらす。
U君は、「今から塩酸をかけるぞ」と言わんばかりの冷徹な目をこちらに向けていた。僕が驚いた顔をしていると、彼の独裁欲がさらなる高まりを見せた。
とうとう塩酸は大きな波を立てて、ビーカーから飛び出してきた。僕はとっさに避けた。最悪の事態からは、なんとか脱した。
難を逃れたかに思えたが、悲劇はまだつづいていた。塩酸は放物線を描くように、僕のバッグに落ちていったのだ。
深緑色のバッグには、小さくて黒い水たまりができていた。僕はすぐにタオルで擦った。何度も何度も擦った。それでも、水たまりは小さくなるどころか、ますます大きくなるばかりだった。おまけに塩酸独特の薬品の匂いも漂ってきた。
バッグにかかった塩酸は、ドーナツ屋のスクラッチみたいに、擦ればこするほど幸運が訪れるものではなかった。
やがて、騒ぎに気づいた先生が僕たちの元へ駆けつけてくれた。U君は先生にひどく叱られていた。けれど、独裁者は謝ることを知らなかった。
「ごめんなさいは?」
「・・・・・・」
先生が謝ることを促すけれど、彼はそっぽを向いてしまった。手に持っていたビーカーは、先生に取り上げられる。その瞬間、小さな独裁者はふたたび普通の小学生にもどった。恐怖政治は短いのだ。
家に帰っても、僕のバッグの水たまりは消えなかった。どんな石けんや洗剤も無力だった。僕は抵抗をあきらめ、あるがままを受け入れることにした。
U君は今なにをしているんだろう。理科の実験のことは覚えているのだろうか。別に根に持っている訳ではないけれど、彼がふたたび独裁者になっていないことだけは願っている。