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正確な言葉ほど、現実味がない。

 少し前に、『現実が夢で、夢が現実。』という記事を書いた。そこでは、僕が実際に見た夢に『ミサイルと花火』というタイトルをつけて、夢で起こった出来事を記述した。

 その夢は、目を覚ましてから数秒にわたる間、現実なのか夢なのか区別がつかないほどリアリティがあった。だから、その映像が薄れないうちに、近くにあったノートにメモをした。

 夢には臨場感がある。五感で感じ取れる情報量は膨大だ。しかし、それを言葉で説明しようとすると、途端に空虚なものへと変貌する。だから、あの記事でいくら正確に説明できたとしても、別の人が読めば中身のない言葉の羅列に見えると思う。

 僕たちは言葉を使えば、正確に、迅速に、多くの人に情報を届けることができる。しかしそれがいくら正しい記述でも、大切な何かが欠けている。それは、おそらく読む人が感じる臨場感だと思う。

 凄惨な事件のニュースを文字で知ったとき、僕たちは想像を膨らませ、恐怖を感じることもある。しかし、それでも、実際に現場にいた人の情報量には敵わないだろう。彼らの五感でしか感じ取れない情報があるからだ。正確な記述であればあるほど、うわべだけの文字の羅列になってしまう。

 ニュース記事では、人が亡くなったという悲惨さを強調するために、数が用いられることがある。「〇〇人が犠牲となった」というような文言だ。もちろん、事実を伝えているので、そこに間違いはない。

 しかし、数でしか悲惨さを強調できないという見方もできる。1人であろうが、10人であろうが、1人ひとりの欠けがえのない命であることには、なんら変わらない。

小説の臨場感

 同じ言葉でも、物語にすれば話は別だ。小説家が時間をかけて描写すれば、臨場感のある文章に変わる。僕たちは小説を読んで、笑ったり、怒ったり、涙を流したりするのは、文章を五感で読んでいるからだと思う。逆に、いくら正確に描写されていても、何も感じない文章は、物語としてさほど面白くはない。

 最近、村上春樹さんと川上未映子さんの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読み返していたら、興味深い記述があった。

 以下の文章は、村上氏のノンフィクション文学作品『アンダーグラウンド』の執筆時に、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者にインタビューをした際のエピソードだ。

例えば、『アンダーグラウンド』でインタビューした時も、相手はプロの書き手ではない、普通の市民ですから、インタビューした後、テープ起こしをしたものを、僕自身の中に一回潜らせるんです。いや、逆に僕自身を相手の話の中にくぐらせると言った方が近いかな。とにかくそうすると、そこから出てきたものは、単に機械的に起こした原稿とは、明らかに違っているんです。
(『みみずくは黄昏に飛びたつ』p49より引用)

 聞いた話をくぐらせる方法のことを、春樹さんは"マジックタッチ"と呼んでいる。マジックタッチを使えば、単に聞いた話を文字起こしするのとは、全く異なった印象になる。

 それは同時に、正確さに欠けた文章とも言える。しかし、本人に書いた文章を見せたとき、「これは私が喋ったとおりの内容です」と答えるらしい。

 これは小説家のなせる技だし、マジックタッチの名手であっても、すぐに書き上げられるものではない。時間をかけて、何度も修正をしながら読者が臨場感を感じられるような言葉に変えていく。ニュース記事のように、正確に迅速に伝えることは難しいけれど、じわじわと確実に多くの人にボイスを届けることができる。

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 正確な文章であればあるほど、現実味を感じないが、現実味があればあるほど、正確さも欠けてしまう。正確な文章であればあるほど、迅速に多くの人に届けられるが、現実味があればあるほど、確実に多くの人にボイスを届けられる。

こんばんは。雨宮大和です。今日は、最近考えていた、もやもやしていたテーマを記事にしてみました。書いている内に、村上春樹さんが似たようなことを言っていたような気がして、本を読み漁っていました。ちなみに、ボイスというのも春樹さんの言葉です。

次に読むなら

今回の記事を書くきっかけとなった、過去のnoteです。思いつくままに書いた文章だと記憶しています。ぜひご覧ください!!

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雨宮 大和|エッセイ・短編小説
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