人間は何のために生きるのか。
人間は何のために生きるのか。
僕は子どものころから、そんな哲学的なことばかり考えていた。もちろん、家族を養うためとか、自分が楽しみたいからとか、そういうありきたりな答えはすぐに浮かんではくる。けれど、核心をついた答えに一度も辿り着いたことはなかった。
たしか僕が3歳くらいの頃、人間はいつか死ぬということを知った。人生にはいつか終わりがくることを悟った。別に近親者が亡くなったわけではないし、誰かが死について教えてくれたわけでもない。沈みゆく夕陽を見ながら、僕は感覚的にそう思った。
当時住んでいた一軒家の庭で見た夕陽やそのときの感覚は、今でもよく覚えている。悲しいでもない、怖いでもない、特別な感情が僕の心の中を渦巻いていた。きっとそれは、虚しいという感情なのだと思う。
早朝、日の出を迎えて太陽がのぼってくる。昼間に太陽は高くのぼり、最高気温になる。夕方になると、太陽は沈んで真っ暗になる。まるで人生みたいだ。きっと幼少期の僕は、これが人間のように見えたのかもしれない。うまく言語化できなくても、感覚的にそう思ったのかもしれない。
人間はいつか老いて死ぬのだったら、太陽が一番高くのぼっているときに、要するに人生の絶頂期には、「人間は何のために生きるのか」の答えを知りたいと思っていた。
僕は小学6年生のとき、友達のK君と一緒に学校の先生にインタビューをした。
テーマは「人間は何のために生きるのか?」だった。先生たちは、「家族を養うため」と答えたり、「お金持ちになるため」と言って笑いをとっている先生もいた。
僕はK君と一緒にビデオカメラを回して、インタビューの様子を撮影していた。動画は、卒業式前のイベントで披露する予定だった。
最後に、校長先生のところへ行った。僕たちはいつもの要領で「人間は何のために生きると思いますか?」とたずねる。すると校長先生は少し間をおいてから、「生きる意味を見つけるためかなぁ」と言った。
イベントでは、インタビューの話を聞いて、みんな感心していた。担任の先生は、「やっぱり校長先生は奥が深い」と言っていた。
一方、僕は不思議な気持ちになった。校長先生の答えは上手い返しだとは思うが、これでは質問に何も答えていないのと同じだと思った。
きっと賢くて、偉い校長先生でさえ、「人間が生きる目的」が分からないのだ。僕はそう思うと、自分がとんでもなく大きな問題に頭を悩ませていたのだと理解して、胸を撫で下ろした。
少しまえ、寅さんの名言を見つけた。それは、『男はつらいよ 寅次郎物語』の中で、甥の満男に人間は何のために生きているのかと訊かれたときのセリフだった。
その瞬間、僕は子どものころに不思議だった「人間は何のために生きるのか?」という難問に対する答えのひとつにたどり着いた気がした。
僕たちは大きな失敗をしたとき、何もかも上手くいかないと思ったとき、「何のために生きているのだろう?」と自問自答する。
そういうときは、難問にひとりで立ち向かおうとせず、寅さんの名言を思い出せばいいと思う。