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満月

 通学鞄は捨ててしまった。
 私に帰る場所はなかった。いや、そんなものは鞄と一緒に捨ててしまったのだ。
 当てもなくさ迷い着いた先は、建築途中のまま放棄されていた廃ビル。内装のない空虚な空間は、巨大なコンクリートの屍骸を思わせた。
 その屍骸の中で、もう動く気力さえ尽き果てた私は、膝を抱えて目を閉じ、ただ生暖かいコンクリートの壁に背中を預けていた。少なくともここなら誰も来ないだろう、そのはずだった。
「こんな夜更けに、お客様?」
 小さな靴音と共に、くすっ、と小さな笑い声がしたのは、気のせいだったろうか。
 予期しない来客者は、纏わりつくような晩夏の蒸し暑さを吹き払うような、涼やかな声で虚ろな空間を満たした。呆気にとられた私をよそに、彼女の唇はその心地好い声で、意味があるとは思えない独り言を紡ぐ。
「満月は、人の心を蝕むのかな」
 その気配は何の気負いもなく、壁に背をもたれさせて座っていた私の傍に座り込んだ。
「こんばんは」
 予期していなかったことに、思わず目を開いていた。目の前には、お姫様のように綺麗な顔立ちの少女が、私をじっと見つめていた。
 まるで満月を飲み込んでしまったかのように大きく輝く、漆黒の瞳が私を囚える。
 満月。意識していなかったが、月明かりで周りは仄かに明るい。そのせいか、少女の僅かな動きでさえはっきりと知覚できる。
 ゆっくりと、少女は身を寄せる。身軽な彼女の身体は暖かくて、一緒に居ても苦痛ではないどころか、ひどく心地よかった。
「あなたは、お月見に?」
「……なんでもない。少なくとも、あなたには関係ない」
 ふわふわ、そんな頼りなく不思議な言葉が、現状にはとても似合う。言葉といい、声といい、そして、背中に羽でも生えているのではないかと疑いたくなるほどの、軽い体。
「……どうして、こんなところに」
 何か幻想か、それとも手の込んだ嫌がらせなのか。何も話さずにいるとそんな気がして、我ながら馬鹿げていると思いながらも話しかける。
 私の抱いていた不審さが伝わったのだろうか、少女がふふ、とあどけない笑みを漏らした。
「ここは、わたしのお城。何もない、あると言えば夜とお月様ぐらいだけど」
「お城……?」
 およそここには見合わない言葉を、どう解釈するべきだろう。そんなことを思いながらも、しかしそんな言い回しは随分と好ましいものに感じられた。
「……なら、あなたはお姫様なのね」
「お姫様?」
「ええ。お城にいる女の子は、可愛らしいお姫様に決まっているわ」
 何を言っているのか呆れるような気持ちも、なくはない。しかし、それで構わないだろう。古城に住まうお姫様だと、そのように彼女を扱うことに、どこか楽しささえ覚えていた。だからこそ、少女の言葉は意外なものだった。
「じゃあ、あなたは遠い場所からやって来た、客人のお姫様」
「え……?」
「だってそうでしょう? お城にいる女の子は、お姫様なんだって」
 確かにそんなことを言いはしたが、私など全くそんな柄ではあるまい。しかし配役のミスマッチよりも意外なことを、少女は口にした。
「くす、せっかく遠い場所から来てくださったのに。美しいお姫様、わたしと一緒に、退屈なお城を抜け出してしまいましょう?」
「何をしに行くの?」
「そうだね、綺麗な月夜なのだし……、外でお茶会に」
 楽しそうに微笑んで、少女は舞うように立ち上がった。ドレスの裾に月光と影を纏わせて、私の前に手を差し出した。
「いいところを知っているの。こんな日に、最適なところ」
 私がいま見ているものは、夢か、幻か。しかし、彼女が何であろうが、それはささやかな問題に過ぎない。
「連れて行って、お姫様」
「はい」
 私は差し出された手を、縋るように握った。少女の身軽さが移ったように、身体は軽かった。

(終)

 本文は1519字。Web初出は2017年。原形の文章は2015年頃だった様子。
 これくらいの長さならNoteの方に需要があるかな……、と期待して小説家になろうより転載。同人に載せたことがないらしく、作者自身もびっくりしております。
 Noteではこういうのを投稿していければいいな、と思う次第です。よしなに。

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雨宮桜花
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