蛙は大海原に焦がれない
蛙だと自称することが少し増えた。小さな小さな海でもない場所で優越感に浸っている、そんな蛙だと。
数週間前だったかもっと前だったか、あなたはもっとちゃんとしたところで働いてみるべきだよ、と言われた。相手はずっと前から同じ業界にいて、もっと大きなところで働いてきて、きちんと成果を上げている人だった。仕事に対する姿勢を尊敬していた。上手だとも思っている。ああはなれないけど参考にしたいと常々考えている。
人にものを教えるようになって、一年と半分はとうに過ぎていた。向いていないことはないのだろう、くらいの自信が持てるくらいにはなっている。
思考を言語に落とし込むことは慣れている。怖いという感情と向き合うことも出来るつもりだ。
自分の得意不得意も見極めようとしている。順序だてて話すことは得意。本人の苦手を引き出すことも出来る。ユーモアたっぷりに教えることはとても苦手。やる気を引き出すこともきっと不得意だ。
それでも、今いる場所で出来ることには限界がある。相手にとって最善を目指せば上から咎められる。上の方が経験も長いし立場も上だ。手の届く範囲ならばすくいあげたいのに、阻まれている感覚がある。
毎日毎日、悩んでいた。いっぱい考えて、悩んで、実行して、試して、振り返っていた。自分一人じゃどうしようもない。届くはずなのに届かない。手伝ってくれと上に頼んでも動いてくれない。だから自分の手だけで届けられるものの質を上げようとして、そして、相談をしていた。
どうやって教えたらいい。貴方ならどう教えますか。何を意識すればいいですか。こういう場合はどう対処しますか。
知識も経験も浅いことを自覚していた。人に頼ることを覚えようと思った。それを肯定してくれたし、教えることにまっすぐな人だった。こちらの立場にも状況にも理解を示してくれていた。
「ね、難しいですね」
へらりと電話越しに笑った。細い月が雲の後ろから少しだけ顔を出していて、空気が冷えていた。
「あなたはもっと広い世界を知った方がいい」
今でさえ苦しいのに。出来ないことがこんなにあるのに。それを言葉には出来なかった。喉の奥でつっかえた。
「井の中の蛙みたいだよ。今の環境だったら出来る方だと思うけど、それまでだよ。もっと大手だったら出来ることも増えるよ」
紛れもなく正しいのだと思った。いつだって提示される内容は正しくて、いつだって間違っているのはこっちだった。
今教えているひとたちは、最後まで教えたいと思っている。自分がいなくなったらどうする。今自分が教えているひとたちはどうなってしまう。
ちっぽけな井戸の中でえばっている蛙すらいなくなってしまうのに。
「大海原には、きっと行けないけど」
震えそうな声を必死に取り繕って、井戸の中に潜った。
「貯水地くらいには、いけるように、頑張るから」
今日も小さな蛙は、貯水地を目指している。