見出し画像

このスーツはカッコいい

 スーツを買った。袴かドレスかその他もろもろの、とりあえず式典で着るための洋服が必要だったから。男性はスーツを着ることが多いらしい。知らないけれど。
 袴もドレスも着たくない。着飾りたくはない。それでもちゃんと正装っぽい服は着なければならない。なんて不条理。仕方ないことは分かっているけれど。

 じゃあスーツにしよう。そんなことをふと思った。

 僕の性別うんぬんの話はこっちに書いてあるから、詳しい話は省略する。何度も同じ話をしたって冗長なだけだ。とりあえず僕は、僕の身体の性別で認識されたくはないのだ。僕は僕でいたい。そのためには、スーツがよかった。
 だからって身体の性別は変わらないから、しっかり男性もののスーツを着たって不格好なだけだ。それはよくわかっていた。似合っているものを堂々と着ている姿はカッコいい。どんな性別であろうと、誰であろうと。

 男性の形のスーツが着たい、と思った。
 だって、カッコ良さそう。

 だから買った。必要経費だと言って母がお金を出してくれた。二着セットで買うと安くなるやつ。それでも六桁してたはずだから、正直罪悪感が拭えない。
 その棚の生地高いよって言われたって言ったじゃんか。全て決めきって値段を見た母の顔を見ながら、心の中で呟いた。そんな顔しないでくれよ。高いのじゃなくてよかったのに。僕にそんなお金使わなくてよかったのに。そんな顔して、「結構いい値段したね」って言うくらいなら、買ってくれなくてよかったのに。そんなことを、実は思った。
 スーツを決めた帰り道、母に「私だったら絶対あんなの着ない」と断言された。そりゃそうだ。僕と母は別の人間で、趣味も好みも何もかもが違う。レディースの、可愛いらしい、女性の形を好む母と、僕は、別の人間だ。

 まあそれでも、採寸から何まで付き合ってくれて、オプションも一緒に悩んでくれて、何も言うことはない。母と一緒に行かなければ、多分あの場で萎縮していた。おかげで素敵なボタンと裏地になりました。悩んでる母楽しそうだったし、いいか。うん。

 買ったところはグローバルスタイル。この記事を参考にさせていただいた。引用の方法まずかったらお知らせください。
メンズスーツを女性向けにオーダーする
グローバルスタイル公式

 個室で採寸するなんて経験は今まで一度もしたことがなくて、というか、ちゃんとオーダーメイドでなにかを買ったことが本当になくて。服なんて拘っちゃいけないと思っていたから尚更、怖かった。だってああいうところ、何となく敷居が高い。美容室が怖いのと同じ。
 何をするのか一切分からなかった。それも怖かった理由の一つだと思う。

 ジャケットを着た。男性の形の一番小さいサイズのもの。そこから肩を一センチ詰めた、と、思う。
 後ろの切れ込みの場所を決めた。左右に一つずつのタイプにした。その方がスタイリッシュに見えるらしい。単純にヒップラインが露になってそうなタイプを避けただけだ。まあ選択は良かったらしい。
 前のボタンの数を決めた。二つと三つから選べた気がする。あと二列か一列。一列の二つボタンにした。三つもボタンあっても何か、な。そんな感想から。初めてスーツはボタンを留めないで着るものだと知った。留めても一番上のボタンだけらしい。へえ。マナーがあるのか。そんな顔をしていたら、母に呆れられた。
 ポケットを斜めにつけるかを選べた。斜めにした。これまたスタイリッシュに見えるらしい。
 袖のボタンは四つと三つのどちらにするか、というのもあった。四つのものは少し重なっていて、三つのものは一番上の写真の通りだ。ボタンがちゃんと見えた方が好みだなあと思っただけだった。これはちゃんと自分でも気に入っている。他のところは正直よく分からない。

 ズボンも丈を少し縮めた。腰周りを絞った気がする。あと後ろに切り込みが入っている。これを見て父は声を上げていた。いいものらしい。

 全て曖昧だ。というのも、実はあんまり覚えていない。緊張しすぎてて。いい経験だから何かしら覚えていたいなと思ったけれど、すっかり忘れてしまった。もったいない。メモを取ってもいいですか、すら尋ねる勇気のない小心者なのだ。

 採寸などが終わったら、どの生地にするか決める段階に移った。最初は一人で見ていたのだけれど、何が違うかがこれっぽっちも分からなくて、個室で待っていた母を呼んだ。柄の違いくらいは分かるけれど、どれがいいかなんて分からない。自分で選ぶとどちらも似たようなものになる。それは多分、きっとよくない。

 結局写真の二枚になった。詳しい生地の名前はこれを見たら分かるのだろうか。サイズや値段が書いてあるわけでもないし、多分大丈夫だろうから、写真を載せる。

 言い忘れていたが、二着とも同じ形である。多分そういうセット。生地が違う。あと裏地とボタン。

 そう。いくらか分のポイントか何かで、オプションがつけられた。多分それで二つ、ボタンと裏地にしたんだと思う。無料の範囲の裏地とかボタンとかもあったし、僕はその中から決めようとしていた。まあ母に止められ、店員さんに別のものを勧められたので、大人しく従ったけれど。だって分からないし。実際二人に選んでいただいた方がかっこよかった。母はともかく、店員さんはいつの間に僕の好みを把握していたのだろう。専門職ってすごい。

 少し話は脱線するのだけれど、帰り道、母に「営業トークというものを覚えた方がいい」とアドバイスされた。それについて、思ったことがあった。
 まあ確かに、営業職とか一切向いていない自覚があるし、生まれ変わってもやりたくない。お世辞とか言える方だけれど、あれはお世辞に聞こえるだけで、僕の中では本音なのだ。大袈裟に言ったことはあれど、無理やり探して誉めたことはあれど、嘘を言った覚えはない。これをお世辞と言うのだろうか。
 同時に、僕は自分に向けられる好意的な言葉を、総じて「サービス」だと思う癖がある。失礼だからやめたいのだけれど、思い込みというものは恐ろしい。抜けやしない。初対面なら特に。見た目に関してなら特に。だから、店員さんの言葉がお世辞であることは分かっていたのだ。
 それでも、僕は多分、店員さんの言いなりになっていた。母がいなかったら、もっと。
 だって、相手は専門職だ。それを仕事にして、お金を貰っている。そりゃある程度高いものを売ろうとはするだろうが、それが仕事であるから当然だろうが、でも、最悪のものは売らないと思う。払ったお金は、決してスーツにだけ支払われているのではないと思っている。その人のこれまでの時間だとか労力だとか熱量だとか、知識だとか。
 営業トークだろうが、それがいいと思わされたのならば、それでいいと思うのになあ、と、何となく思った。正当な対価を支払うべきだろうと。それが母から見たら正当ではないのだろうな、と思ったから、彼女の言い分も分からないわけではないのだけれど。

 閑話休題。

 採寸に行ったのは去年の年末。クリスマスも終わった頃だった。精神が落ち着き始めた頃で、これを逃すと「自分のために服を選ぶ」という行為に、罪悪感のような、恐怖心のような、漠然と首を吊りたくなるような感情を抱く自信があったから、社会の情勢的に宜しくないことを承知の上で、その時期にした。予約を取れば逃げないだろうと思って。帰ってすぐ手洗いうがいお風呂のルートをとったのでご理解いただきたい。
 そこから一ヶ月で出来上がるらしい。つまり出来たのは一月の下旬。二月上旬から二週間は確実に動けなかったため、受け取るのが遅くなった。二月の二週目に受け取った。

 買ったのはジャケットとパンツだけだったから、そこからシャツとネクタイと靴を選ぶ作業に入った。
 アパレル業界で働いていた経験があるらしい両親が楽しそうで、我が家でファッションショーが開催されたのは初めてで、仲の良い二人を見るのは久しぶりで。それだけでまあ、よかったかなあ、と思えた。
 結局シャツとネクタイは、翌日ショッピングモールで買った。本当は刀剣乱舞のオリジナルシャツを買うつもりだったらしいのだが、僕が億劫がってスーツを取りに行くのを躊躇っていたら、申し込み期間を過ぎていた。ちょっと惜しいことをした気がする。
 シャツとネクタイは母と下の家族が一緒に選んだ。シャツはグレーのメンズ。一番小さいサイズにした。若干肩が余ったものの許容範囲だ。ネクタイは、黄色や赤を推す二人と、どうしてもそんな色が嫌な僕の対立の結果、二本買った。暖色のものを身に付けることに抵抗があるというか、嫌悪感を抱いてしまうというか。ちなみに、まだ当日どちらを結ぶかは決まっていない。当日とは令和三年三月十三日、記事公開日の翌日である。今から決める。
 靴は編み上げのブーツになった。ローファーや革靴は、靴擦れが酷い確信があったから、最初から除外していた。足の横が広くて甲が高いらしく、普通のパンプスは苦手だ。そもそも女性向けの靴があまり得意ではない。編み上げのブーツって強そうだな、と、何となく思っている。武装して戦に行くのだ、戦闘力を上げていくに越したことはない。

 髪を切らなければいけないな、と思った。前々から髪を切らなければと思っていたけれど、今回は確信した。駄目だ、このスーツ着るのに、この髪は駄目だ。
 髪を伸ばしていた理由はあった。その理由だって、もう持っていてはいけないものだったから、いい機会だ。悔いも未練も、無いとは断言できないけれど。とりあえず僕は、髪を切る。
 というところまで書いて、下書きに保存していた。ここだけ追記。切った。女性っぽく見えかねないけれど、多分どっちにも見える。ついでに染めもしたから、戦闘力は上がっている。

 安いジャケットというものを見た。ショッピングモールで売っている、四桁のものだ。
 正直僕は、大差ないだろうと思っていたのだ。見る人によっては分かるのだろうけれど、僕には分からない。だから別に安かろうといいじゃないかと。
 違った。全然違った。本当に。
 生地がペラペラなのだ。ペラペラな生地ってなんだよってずっと思っていた。冬用の厚手の生地なら分厚いだろうと。透けるものでもないだろうと。
 そのときに思った。僕のスーツ、カッコいいんだな、って。

 服にそんな値段をかけたのは初めてで、大事にしなければいけないなあ、とは漠然と思っていた。元よりものを長く使う質だから、多少高くても元は取れると思っていたけれど。それでも、愛着を持って着たいな、と思ったのだ。
 だって、僕のスーツ、カッコいいから。

 僕はこのスーツを着て、立ちたくない舞台に立つ。立つくらいなら首を吊った方が何万倍もましだと思っていた舞台に、何でもない顔をして、立つ。何の言葉も、お守りもないまま。されるはずだった覚悟をされないまま「友人」と別れる。誰とも写真を撮らず、何の約束もせず。一緒に舞台に立った二人に、今までで一番良かったよ、二人と舞台に立てて良かった、ありがとう、なんて言って。労いの言葉は一つもなく、言葉は届かないんだと再確認して、性懲りも無く傷付いて。そうして一人で帰るのだ。
 考えるだけで嫌になってしまう。逃げ出したいし、許されるのならば一人で舞台に立ちたい。出来ないのなら、行きたくない。それでも、逃げる勇気はない。だから舞台に立つ。
 だったら。だったら、武装くらいしたい。意味を成さないだろう。それでもいい。僕はカッコいいスーツを着ている。だから背筋を伸ばす。前を向く。顔を上げる。堂々と声を張る。友人にさよならを告げる。舞台に立った二人にお疲れ様を告げる。
 だって、その方が、このスーツには似合う。

 僕が初めて手にした、オーダーメイドのスーツの話だ。そしてこれは、僕の退路を潰す話だ。

 どうなるだろうね。僕はこのスーツに見合う人であれるだろうか。あれたらいい。そんな、僕の備忘録は、ここで終わる。

いいなと思ったら応援しよう!