8月9日、黒い雨
1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。父は当時4歳、西彼杵半島に住んでいた。父自身は幼かったこともありその日のことは覚えていないが、父の10歳上の義姉はその日夜遅くまで遠くに見える市街の空が真っ赤だったことを覚えている。
祖母は若くして父を産み、祖父は兵役で収集された。特攻隊に配属されたものの、上官に幼い子がいることを伝えると「お前は死んだらいけない」と、配属先を変更してもらえた。そのおかげで祖父は83歳まで生き、私と会うことが出来たのだ。私が覚えている祖父は猫好きの耳が遠い優しいおじいさんで、耳が聞こえないので身振り手振りでコミュニケーションを取り、手先が器用だったから交通事故で死んだ猫のための墓を掘っていた。祖母は面倒見のとにかく良い人で戦後、7人兄弟の子供に恵まれたのと同時に11人以上の家を失い行く当てのない人たちを自宅で面倒見ていたと言う。
原爆投下当時家にいた父と祖母は直接の被爆はしなかったが、数日後行方不明の知人を探すために市街に行き間接的に被爆をする。祖母は被爆者手帳を所持していたが父は持っていない。上京して就職するためには差別と言う弊害が大きかったのだと言う。
父が覚えている戦時中の記憶は爆撃で縁側に座って芋を食べていたら衝撃を受けて地面に落ちてしまっていたと言うこと、空襲で防空壕に逃げ込んだとき、一緒に避難していた小学生が騒いでうるさかったこと。
戦後は進駐軍が村にやって来て幼い父に役場前に車が置いてあって通れないからどかせと言って一旦は去ったが、幼い父には車の運転は出来ないし困って役場前をうろうろとしているとしばらくしてまたやって来た進駐軍が怒りだして怖かったと言う。チョコレートをくれたとか良い思い出はないらしい。
父は常々戦争は嫌だと言っている。幼いながらも恐ろしい記憶が染みついているのだろう。そんな父も今年祖父が亡くなった83歳になった。遅くに出来た子供である私とももうそんなに過ごす時間はないと思う。私は被爆二世としては多分最後の世代だ。伝えられるのはこんなことばかりで、それでも父とその家族の生きて来た軌跡であり奇跡を知っている。
平和な世の中であったのなら何も恐ろしいことなんてなかった。父の生きて来た人生をこのまま終わらせるわけにはいかない。父は現在病気で片目が不自由になり、健康不安も多い。それでも祖父と同じように猫が大好きで子供も大好きな優しいおじいさんだ。そんな父の思いを私は受け継いでいきたいと思う。私に出来ることは素人ながら文字をつづることしか出来ないが、それでもどこか次に繋いでいくことが出来たらその向こうにいまはもういないたくさんの人たちの人生が繋がることになる。
今年も8月9日がやって来る。長崎に父の実家はもうなく、西彼杵半島に行く機会はないが遠く離れたこの地から今年もただ平和を祈りたいと思う。